人は死ぬという現実と、なぜ葬儀屋なのかという現実

葬儀屋の子分向け

お気持ちはわかっていません

葬儀担当者としてやっていた頃、私は親を亡くした事がなかったので、本当の意味での「お気持ちはわかります」は無かった。

わかる訳がない。喪主の相手は山ほどしてきているけど、喪主の立場に立っていないんだから。ここに言葉の軽さがあるんです。

こちとら葬儀を数千回と見てやってきた自負はあるけど喪主経験無し。対する喪家の方は葬儀は初めてだけど喪主経験1回目。

どっちがリアルかというと、やはり現実に喪主に立たされた人の苦労や悩みの方が切実なんです。それが私にはわからなかった。

死んだ後の人としか付き合いがない葬儀屋

動かない人しか相手にしないのがほとんどの葬儀屋なんですが、。私が初めて親を亡くした時の気持ちは、「えっ、人間の生死の狭間ってこんなもんなん?」でした。

脳内の静脈から出血したおふくろは救急車で病院へ。同時に劇症肝炎を併発し、血液をネットリさせたい肝臓とサラサラにしたい脳内への相反する対応に挟まれながらも一命を取り留めたのです。

術後のお決まりのような水頭症も乗り越えた。やがて意識を取り戻し、「お母ちゃんな、大きな木に包まれて出られなくて怖かった」と話すのを私は臨死体験と思っていたのです。

悲しいかな、これは痴呆症の症状なんだというのがわかったのは数日後。話の通じない親と仕事と看病という、皆さんが経験する事を初めて味わう事になったのです。

その後肺炎を併発。血中酸素が低下し、苦しそうに息をするおふくろの上下するお腹を見ていた時、最後に「ふぅー」と大きく息を吐いたと思ったらお腹が止まったのです。

「えっ?」私の頭の中に「?」がいくつもやってきます。これが死に目? えっ?おふくろ死んだん? 葬儀屋の性なのか涙は出てこない。異常に冷静すぎる。

これが初めて経験した人の死の瞬間です。実にあっけない。さっきまでの状態と何も変わらないのに死んだ。生と死の狭間がこんなに味気ないものとは思いませんでした。

もう一つの葬儀屋の勘違い

おふくろの葬儀は自分が担当している葬儀会館で行ったのですが、これも見慣れた、勝手知ったるところ。違うのは担当するのではなく、喪主という立場。

当時、一応責任者という立場にもあったので自社の関係者から取引先まで何やかんやとたくさん来てくださったのですが、そこに小中時代の親友も訪ねてくれた。

多くの弔問者の対応に葬儀屋の目線と喪主の立場で対応していた時、彼は祭壇の前に安置したおふくろの棺に近寄ってお別れを告げてくれてたのです。

後日、その彼から「なんで顔を見せてくれへんかってん」と、落胆と若干の怒りを込めた言葉をもらいました。初めての喪主の私の意識は半分葬儀屋。だから彼の気持ちに気付かなかった。

葬儀と関係のない一般の方。すなわち彼にしてみれば、昔から知ってる「クニのおばちゃん」の葬儀に出て顔を見て最後のお別れをしたかったのにできなかった。させてもらえなかったのです。

古き良き時代の葬儀を知る私は、故人は見せ物ではないという考えがどこかにあって、遺族が棺の蓋を開けるのはご自由にどうぞでしたが、葬儀屋がそれを先導する事に大きな抵抗があったのです。

ましてや多くの弔問者の中で限られた人にだけ御開帳なんておかしくないか。その顔を見る儀式は遺族のものであって、坊主が退場してからずっと蓋をオープンにしたままってどうなん。

むやみやたらにお披露目するようなものじゃなく、弔問者が帰った後、喪主や遺族がひっそりと蓋を開けて故人と対話する。顔を見る。見せるとは、そんな事だとの意識があったのです。

ですが、多くの一般の方からすればそんなの当たり前。でも半分葬儀屋の喪主の私は、最後やから見てやってに気付かなかった。

葬儀屋の初めての涙

後日、おふくろが住んでいた家の後片付けに行った時、押し入れの中から出てくるノーブランドのカバンや財布を見た時に手が止まり涙が出てきました。

このボンクラ息子は、葬儀業界に入った時からもそうだし、ちょっと責任者になったからといって金回りが良くなったと思ったら、ブランドのネクタイやベルトに財布に手を出す。

一人住まいのおふくろを訪ねては、タバコ1本吸って「また来るわ」と、とっとと帰る始末。いつでもそこにいる。そんな事を当たり前に思っていた自分に情けなく、涙が出ました。

自分にではなく、おふくろに、たとえその価値を知らなかったとしても「息子からもらってん」と知り合いに話す事もさせてあげれなかった自分を恥じました。

そんな親の人生に自分も同席しているし、それを送るという事は自分にとってもやはり大事な事なんだと、長い葬儀屋人生の中で初めて実感したのがその時でした。

葬儀の仕事と縁を結んだ事の意義

もちろん仕事なので、少しでもお給料は多い方がいいし、早く終わったり、休みをきっちり取れる事も大事。自分の人生だから、自分の稼ぎでやりたいようにすればいいと思う。

けど葬儀という、普通じゃない仕事をやっている。そこには意味ではなく意義があると思うのです。死を現実に垣間見る事の重要性があると。

お金をかけたからいい葬儀でもないし、かといって、その言葉を横取りして都合よく使うのも違う。葬儀というのは、あくまでも儀式。

だから命を送り、祀る意味を自分の全てで感じて周りに伝えてほしいし、初めて喪主に立ったその時に精一杯悔いて欲しいのです。

一昔前はヤクザな仕事と言われ、忌み嫌う存在だった葬儀屋と縁を結んだ自分は、いつしか徳を積むためにそこにいるんだと思ってきました。

自分のためではなく、自分に繋がる全ての人が、大難を小難に、小難が無難になるように。その功徳を産み育てることができる仕事なんだと、今も誇りを持っています。

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