1月17日 午前5時46分
ブログを再開するにあたって、やはり葬儀人生の中で一番忘れられない出来事の「阪神・淡路大震災」での経験を最初に書きたいと思いました。
1995年1月17日。その日は、大阪・八尾市の自宅で揺れたと同時に驚いて飛び起きました。これまでに経験した事がないその揺れは「恐ろしい」としか思えなかった。八尾市では震度5弱といわれたけど体感はそんなものじゃない。
とりあえず揺れが収まってから最初に考えたのは、「道が混むかな。こんな日に仕事入ったら大変や」なんて、被害がなかった私は、まさかあんな酷い状況になっているとは考えず自分の事しか心配していなかったのです。
当時、大阪だけに存在していた「アンコ俱楽部」という、葬儀の職人が集まる組織で仕事をやってました。今でいうところのフリーランスなんですが、まあ、ハンパモンの集まりみたいな団体です。
こういった組織は、当時の大阪で小さなところも含めると10団体ぐらいはあったと記憶しています。親方が一人いて数人が集まり、雇用契約も請負契約もない。必要なのは軽トラックと携帯電話と、日当から親方に渡す部費だけ。
己の実力で人気が出れば指名が増えて仕事も増える。人気が無いとか、あいつは使えないとなると留のアンコ(留焼香の意味)と呼ばれ、どうしても人が足りない時にしか連絡が入らない。
今ではアウトソーシングなんて普通ですが、この時代になぜこんな仕事があったのかというと、葬儀屋は大人数を抱えてはできない商売。急に忙しくなった時に、知り合いで融通のきく人間が手伝いに入る形が進化して専門職になったと思われます。
3日で22万円って、アンコってどんな仕事?
当時の日当は3万円〜3.5万円。プラス店によっては寸志も出る。仕事の内容は飾り付けか司会の二つ。どちらも段取りが付けば終わり。で通夜の司会が必要な地域もあるので残って仕事する時もあります。
そんな時は通夜分として日当の半分という店と、追加で1日分の日当を出す店もありました。当時、私が一番たくさんもらったのは、社葬の飾りに2日入り、通夜も残り、告別式の3日間で21万円と寸志が1万円、合計22万円が最高額。
仕事の終わりが一番早い尼崎にあった店の場合では、8時30分に店に入ってから現場に向かい、とりあえず幕だけ下ろして室内を飾っていくんです。社員もテキパキとするので、幕張りが終わった時には全ての準備が終わってあとは納棺と安置のみ。
で、「上がってくださいね」となる。店に戻り、3.5万円を受け取り領収証にサインして、午前11時には終わりで向かいの中華料理屋へ行くという事も多かったのですが、ここは特別で、通常の他店では夕方ぐらいまで仕事をして終わりです。
まさかの電話が鳴った
地震の後、親方と電話で話していて「こんな日にアマ(尼崎)から来てと言われても行かれへんで」なんて話をしていたのですが、その1時間後、親方から電話があり、「どんなに時間がかかってもいいから、来てくれって言うてるから、行ったって」と。
八尾から大阪の天王寺まで出て43号線に入るんですけど、電車も止まっているから谷町筋を通勤の人が、大阪の中心に向かって蟻の行列のように歩いている。
バスが落ちかけた写真を見た方もいるでしょうが、当然、高速は通行止め。なので国道を走るけど、とにかく進まない。東西南北に抜け道を探して尼崎に着いたのは3時間後でした。

店に入り、状況を聞くと社員も出てこれないと。そらそうやなと思いながら、まずは出棺があるから司会に入ってくれと言われ現場へ。
祭壇は崩れておらず、建物も大丈夫。参列の方も無事で皆さん集まってきている。現場着がギリギリだったので簡単に打ち合わせ中、地区の保護師をやっている爺さんが2つの肩書きで弔辞を2本献上すると言ってきた。
あっちこっち道が混んでいて霊柩車も時間通りに来ないし、開式を早めて出棺は30分前に出してくれとも言われている。
「このような状況なので、申し訳ありませんが肩書きをふたつ紹介させていただいて合同での弔辞としていただけませんでしょうか」と言ったら、何を血迷ったか人に「馬鹿野郎」と抜かし、話を聞かない。
震災で亡くなっている方も、救助を待っている方もいる。この現場が普通の時間に終わっても次の現場に霊柩車がたどり着けない。そんな状況でも己の名誉職の事しか考えない頑固ジジイに呆れ返りながら、仕方がなく2本読ませてやりました。
いつもなら、これで帰れるんですが

火葬場へ同行するのは社員がやるので、私は出棺を終えてから片付けを済ませ店に戻ったのです。いつもならここで終わりなんですが、今日は泊まりがけでお願いできないかと。
何も聞いていないから当然、着替えなんて持ってきていない。一応、親方に連絡して許可を得てから残る事に。とりあえず昼食を取ってからがまさに地獄絵図でした。
とにかく寝台車での迎えの電話が鳴り止まない。社員と二人で現場へ向かうのですが、国道2号線は救急車や警察車両が走り回っているし、建物の倒壊もあり全然進まない。

あちこちでビルが崩壊しているし、火災もおきている。避難先の体育館や自宅に迎えに行っても会館の霊安室がいっぱいで引き取れない。火葬場もあっという間に埋まり予約が取れない状況に。
仕方がないので棺を積んで現場へ向かい、即納館して出棺まで避難所などで安置。すると今度は棺が足らなくなってくる。そんな事を朝から夜中まで、まる2日やっていました。
都合3日間だけですが泊まりがけで震災直後の現場にいました。その後も応援要請は続き、尼崎へは震災の復興を見届けながら関わる事に。
やがて高速道路も通行証があれば通れるようになりましたが、神戸方面へは道路事情も悪く時間がかかるため人手が必要で、大阪からの応援アンコは相当な人数が入っていたと思います。


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