葬儀屋さんから見て、お葬式に宗教が必要と考える理由

宗教施設の庭に座禅する信者
宗教施設の庭に座禅する信者

突然訪れる死、あなた自身、または、あなたの大切な方の死に対してどう向き合いますか

様々な理由によって人は死を迎えます。それは自分にとっても、自分を囲む人々にとっても、辛く悲しい出来事として存在する場合もあれば、誰にも知られず、一人ひっそりと亡くなられる場合もあります。医療技術によって、多少コントロールできることがあっても、命に永遠はありません。人は必ずこの世を去ります。

死の後に来る世界。それが存在するのか、否か。これは、宗教者の皆様にお任せする事で、葬儀屋さんが諸説述べるで立場でもありません。ただ、宗教からの観点でなくとも、日本人の多くの方は、肉体は滅びてもその先があると信じるからこそ、墓を建立し、彼岸や盆には行事を行い、日々、ご先祖を敬う事で身近に「御霊」という形なきものを感じてきたはずです。

死への不安、恐怖、悲しみ、それらを払拭し和らげる、そして生きる意義を想う。その観念(悟り)への距離は、生きている間にどのような事を体現し、日々触れ合う多くの人とどのように接していくのか、どのような人たちと出会っていくのかによって得た価値観によっても、自らの言動や自分の心の在りようによっても遠くなったり、近づいたりします。

そんな時、人は自分の生きる指針として、自然界に学び、宗教の教えを参考にしてきました。日本では、神道、仏教、その他の様々な宗教、教えが混在します。歴史上の流れの中で、一部は様々な迫害を受けたり、統合されたりしながらも、宗教は自然と共に生活の中に存在してきました。

日本人は無神論者?

日本消費者協会が行っている葬儀におけるアンケート調査(これ、サンプル数に問題があり、正しいとは言い難いのですが)では、9割以上の方が仏式での葬儀を選択しているという。
ところが、1998年に行われた統計数理研究所の「日本人の国民性」調査によると、宗教を信じる割合は29%で、5年ごとに行われる調査によってもこの数字は横ばい状態だという。

生まれてひと月目にはお宮参りに行き、百日目あたりにはお食い初めでも神社にお参りし、小さな頃は七五三でお世話になり、町村のお稚児さんでお寺の行事に参加し、神輿を担ぎ、盆休みというぐらいに盆の行事は国中で知っているし、新年を迎えれば神社仏閣に良き一年であることを願い、チャペルで神に二人の門出を誓う。そして安産、入試、起業、家を建てる…

先の調査でも日本人の7割近くの方は「無宗教である」と言い切りながらも、知らず知らずのうちにこのような縁起といいますか、「験を担ぐ(げんをかつぐ)」事を行ってみたりしますが、こう言った行為の中にも言葉にも共に宗教に関係する意味も含まれます。

日本で用いられる元号には、その都度、天皇にまつわる由来があり、当然のごとく国の発展と国民の生活の舵をとる、政治と宗教の関係の上で成り立ってきましたし、2020年東京オリンピックなど西暦で表したりする起源もイエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を元年(紀元)とした事でご存知だと思います。

宗教を肯定否定される方々も、生活の中に、私たちが”あえて宗教と定義するもの”が無意識に共存しています。多種多様な神様、仏様が存在し、それと共に生活をしているのが実態ですし、それらの存在を認め、ともに生活している事実がそこには存在します。八百万(やおよろず)の宗教と生きる事ができるのが日本人だと感じます。

終活で大切なこと

その教えを後世に伝えようとされる方と、その教義を依り代とされる方にとっては、人間の、生命の不思議を考える時に、また、生きる意義を模索する上でも大きな指針となっていたからこそ、宗教は存在しているのだと思っています。

世界を見ても、宗教、すなわち生きる根本のルールは存在し、それを中心として生活をしています。その教義、生活スタイルを譲れないため悲しいかな戦争も起きています。人が人を殺めてしまう世界も存在する。日本ではそこまでなりませんが、世界では、それほど宗教という存在が大きいのです。

戦争や、殺戮は、宗教本来の意義ではないはずですが、人間という色メガネを通してしまうと本義とはかけ離れた行動をしてしまう、解釈をしてしまうのでしょう。

現在の葬儀もそうで、本来あるべき「命を祀る」行為から、自分たちの都合を優先し、葬儀と宗教を形骸化させているのは「葬儀を行う人」です。その言い訳が「時代の変化」という言葉であると思っています。

本来の終活とは宗教と葬儀の関係をアドバイスし、相談者と宗教者のご縁を繋ぐことだと思うのです。葬儀の根本にある”葬送儀礼”の在り方を考えていただくためにも、日本古来の霊地、霊山、神社仏閣など、人が生きてきた歴史、死に対する考え方、祀り方の歴史を、今一度、グローバルな視点から”観じて”いただくきっかけを作るべきです。

私の周りでも真の意味での非営利活動(ボランティア)で人間の生きる意義、宗教との関わり方を考えるきっかけになればと行動され、その教義を守る方々とのネットワークを形成し、日々、世に発信する努力をされている方がいますが、その理念より、利便性と個の要求を満たすためのビジネス終活や葬儀がチヤホヤされるこの日本って、やっぱりおかしいと思います。

葬儀で大事なこと

実際、葬儀の現場では、宗教的に多いのが仏式での葬儀です。家族葬であっても、その中には「位牌はどうする?」、「戒名は?」、「お寺さんに来てもらった方が…」など、普段宗教とご縁がなくても、やはり生活の中で無意識に心に感じているのか多くの方が気にされます。

本来、お葬式は死者の御霊を次のステージに送り出す儀式だと思うのです。宗派によりその方法や死生観は違いますが、そのために行うのが宗教ありきの葬儀であり、宗教的行為といいますか儀礼だと思うのです。

葬送儀礼という言葉で表現されるように、”葬送”、遺族のための儀式として、死者との最後のお別れを行い野辺送りを行い弔う。”儀礼”、一定の形式にのっとった宗教的、慣習的な行為だとすれば、礼はともに大切な儀式であると思いますし、だから葬儀だと思うのです。

ところが、現在は、早送儀礼となってしまっており、直葬(何度も書きますが、葬儀にこのような言葉はない)を良しとし、その儀礼、すなわち宗教的儀式を省こう、形骸化しようとの葬儀形態があまりにも増えましたし、当たり前になりすぎています。”形式にとらわれない葬儀”なんて言葉は意味が間違っています。形式があるから葬儀なんです。

葬儀と呼べないものになってしまっているその一因として、葬儀社の料金に対する不明瞭さを指摘し、お寺様のお布施に対する消費者の考え方を不必要に話題性として利用したりするビジネスの台頭が、お寺様との関係をうまく構築できない社会性とマッチングしてしまった要因もあると考えます。

良心ある葬儀社や、宗教者の方の想像を超えるスピードで葬儀が変化しています。
葬儀社は、イオンなどが受け入れ窓口を柔軟に対応しているように変革が必要なのですが、そこには、葬儀専門業者としてのプライドを持ち、宗教ありきの儀式を大切にするべきでしょうし、宗教者は、一部の方ではありますが、葬儀社や葬儀紹介業者とビジネス的な付き合いを止める勇気も必要ではないでしょうか。

大家族から個の時代になって

大家族の時代には、宗教も葬儀も大切にされてきました。現在は、核家族化が進みすぎて、個の意思が尊重されています。(されすぎていると感じますが…)唯一、感情を共有できるのは家族内くらいでしょうか。親も疎ましいとされ、親戚付き合いも遠のいていく。そんな時代です。

子供の弁当を作り送り出したら、自分も仕事に出なければいけない。子育てと仕事の両立どころか、そこへ家事も加わると、もう「時間がない」という環境の中で、葬儀や宗教を考えてみませんか?と言っても、とてもめんどくさいというか、とっつきにくい問題になると感じるのです。

そんなみなさんにオススメするのが、普段の忙しい生活の中から飛び出して、たまには由緒ある神社仏閣にレジャー感覚で、自然の中へお出かけしませんか。ということです。ショッピングセンターでもなく、USJでもなく、お一人様でも、家族でもいいので、お金もできるだけかけずに行ってみませんかパワースポットへ。

近畿情報ばかりで申し訳ないですが、京都には歴史ある神社仏閣が身近にたくさんあります。自然も豊かです。三日坊主オススメの嵯峨野にある臨済宗の名刹、世界遺産にも登録されている「天龍寺」… の横にある湯豆腐の嵯峨野へは是非にと思います。そこから足を伸ばして真言宗大覚寺派の本山「旧嵯峨御所大本山大覚寺」も名刹です。ここでは写経も体験できます。

京都市内へ戻り、清水寺の舞台へ行かれるもよし、金閣寺を見て「きれい」と思われるもよし、初詣では参拝者数トップクラスの伏見稲荷神社や有名な八坂神社も、普段ならお参りしやすいのでこれも良しです。参拝の道中や帰りに美味しいものを召し上がっていただくもよし。静かに抹茶をいただけるところや、座禅や写経を体験させていただける寺院も数々あります。

奈良は、都があった時代の数々の歴史的遺産が存在します。京都のように観光化しきっていない分、厳かに散策できます。奈良と和歌山を結ぶ地域には、霊峰大峯山もありますし、熊野三山の祭神である神々を参詣するもよし、お大師さんの高野山もあります。洞川温泉も龍神温泉もありです。樹齢5百年、千年の吉野檜で建て替えられた天河大弁財天社も神秘的です。

これ、すべて三日坊主が好きなところで、勝手にオススメしています。m(_ _)m

まずは、きっかけです

普段はなかなかしませんが、観光だと思えば人は体験したくなるのです。写経なども、ふっと「やってみようかな?」と思ったら(発心)、興味を持たれたら、興味本位で構いませんので素直にやってみていただきたいのです。「体験」が必要なんです。その経験の中で感じた事が「なんか、いい感じ」と心が感じたならどんどんエスカレートしていただきたいのです。

思い立ち、行動に移し、体現する。このプロセスを続けていただけるのが「興味」でいいと思うのです。一生、歴史や教義に触れる事なく過ごすよりも、一度でも「本物」に触れていただく事によって、宗教に対する見方が変わるかもしれません。何か、考えるきっかけになるかもしれません。それが一番だと思います。

パワースポット巡りから不思議を感じて、そこから日本だけでなく、世界の霊地霊山をめぐる方も出てくるかもしれません。自分の悩みを聞いていただく機会に触れることがあるかもしれません。様々な方との出会いがあるかもしれません。FacebookやTwitterでコメントを残すと、新たなお友達との関係が生まれるかもしれません。

そういった中でゆっくりと宗教というものに触れていただきたいと思うのです。体現していただきたいと思うのです。そして、自らが歩み寄る気持ちを持っていただければ、宗教の存在意義や葬儀について新たな、あなただけの価値観が生まれるきっかけになるかもしれません。
悩み苦しんでの神仏とのご縁でなくてもいいと思うのです。

その上で、自分や家族の生死観について考えてください。生死観をもって終活を考えていただきたい。それらの土俵の上に立つ自分たちの葬儀を考えてこそ、初めて供養という行為に繋がるのではないかと感じます。

そうすると、あなたの身内のお葬式に来られたお寺様の話も、あなたのお家のそばにある神社やお寺に親近感も湧きますし、身近にある意外な歴史上の存在価値を有難く感じていただけるのではないでしょうか。

否定や批判は簡単ですが、それは、人間の考え方であって、自然や神仏はそんな「狭っ苦しい」価値観(観念)なんて持っていないと思います。どれだけ頑張っても、地球や宇宙を創造する事って人間にはムリだと思うと、その大きなエネルギーに繋がるきっかけが宗教なのかもしれませんなぁと、三日坊主は思っています。

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