弔電披露(ひろう)?の意味を考える

ネットで電報のVERY CARD
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電報の存在感と、その生き残る生命力には脱帽する

先日、友人の結婚式が近々あるという話題から、祝電うんぬんとの話の中で、”披露”という言葉が出てきて、サイト上でも、葬儀式次第の中で、”弔電披露”という言葉が見受けられるのにもちょっと引っかかっていたので、今回、その”披露する”という言葉について、改めて考えてみた。

基本、弔電の考え方は、遠方にてその葬儀に参列する事が叶わず、致し方なく古くからある”電報”を利用してその弔意を伝えるために使われてきた背景があります。電話が自由につながる現在とは違い、交換手を介してつなぐような時代には、手紙以上に一番早い連絡方法が、この電報だったのです。

これが時代の流れに埋もれず、未だ健在で生き残っている事に驚きますが、SNSが普及し、インターネットが気軽に利用出来る現在でも、電話からネットでと、申し込み方法は変わっても祝い事、悔やみ事に電報が利用され、その存在感を保っている姿には、葬儀業界の問題解決につながるヒントがあるかもしれません。

電報が、唯一の、早く意思や気持ちを届ける手法から時代が変わった今でも、未だ葬儀の場では弔電を代読するのはごく普通の事とされます。この弔電、宗教者の皆さん、特にお寺様からは、「読経を止めてまで読まなくてよろしい!」と諭される存在でありながら、古くからの慣習で拝読するのです。

それぞれの立場から見る弔電のタイミング

宗派により、その物事の捉え方、作法、儀礼に違いはありますが、葬儀屋さんの側から見た大きな観点でざっくり申し上げますので、「ちょっとちゃうで!」と思われる宗教者の皆様お赦しください。

弔電はまず通夜には拝読しない。これは、宗教的な儀式が中心でもある場ですし、現実的にはまだ届いていない弔電がある。告別式当日に、導師が行う”表白・引導”などの作法の後、時間を頂いて拝読するケースがほとんどです。

葬儀屋さんからすると、これらの作法を導師が行う際には、一旦、読経も止まり、導師も立ち上がったり、座ったり、また、大きな式場では、導師・式衆(法中)が、祭壇の前より少し下がったところに席を設けるケースもあり、前に進んだり、戻ったりするその時間を使わせてくださいねとの考えがあります。

宗教者、特にお寺様から見た場合、葬送儀礼の葬儀・告別式ですから、葬儀の儀式中は、本来、宗教儀式が中心であり、俗世間的なセレモニー事はその中には含まれないのです。ですから、”表白・引導”などの儀式を行って、その後にいくら時間があろうとも、シーンとしてようともこれも儀礼の作法の流れなので、着座すればすぐに次の宗教儀礼に進むのが本意です。

あんたには貸せまへんな

「このお時間をお借りしまして」なんて司会者が言う意味が、わからない世界観です。
「いや、まだ儀式の途中だから、貸せるわけないじゃん」となります。ゆえに、どうしても拝読したいというなら葬儀式が終わって、次に告別式に該当する、代表焼香以降の一般参列者の時間の間に拝読しなさいよとの思いがあります。

現在の社葬なんかでも葬儀式で導師・式衆(法中)が一旦退座して、告別式の前に再度入場するなんてのは少なくなりました。まだ、四天王寺や北御堂、南御堂など大きな由緒ある寺院で社葬が行われていた頃は、葬儀式と告別式は分けてましたし、告別式で再度、導師・式衆(法中)が入場後、告別式の開式を申し上げてから、弔辞、弔電と進み、その後、代表、一般の焼香へと進みました。

個人葬でも、現在の社葬でも、葬儀式と告別式を分けず、一つの流れの中で進むようになって、「さて、弔辞や弔電はどこで行うべきなのか?」との模索と、未だ電報がその存在感を持っている現状で、無下に出来ない背景がマッチングして「お時間をお借りしま〜す」となったんでしょうね。

で、拝読することができた場合、披露なのか?

さて、まずは披露の「披」についてですが、閉じてあるものを開く意味があります。
これに関連する葬儀で聞く言葉としては、古〜い司会者(進行係)が喪主に成り代わって挨拶をする、何てところで「ご遺族の心中を披瀝(ひれき)し…」なんてありました。

披瀝(ひれき)は、”心の中を包み隠さずに打ち明けること”とあり、披(ひ)閉じてあるものを開く、瀝(れき)滴り落ちるように、絞り出すようにとなります。もの哀しさも感じる表現でもありますが、言葉の意味を私も理解してませんので、「そんな事言われても、ようわからんし…」

そう考えると、「悲しみに包まれる心の中をあえて、辛い気持ちを絞り出すように少しお伝えしますので、事情を理解してね」って感じでしょうか。

次に、披露の「露」についてですが、露骨(ろこつ)、露呈(ろてい)でよく見る漢字ですね。物事をあらわにする、周知の事実になる、平たく言えば”見える”、”見え見え”って感じです。

で、披露には、披 (ひら) き、露 (あらわ) すという意味があるとされていることも併せ見ると、お披露目とか、特技を披露する、何て言葉で使ってますので、どちらかと言うと、平時以上の場合で、多くの方へ「お恥ずかしながら、いっちょうやりますわ」で、見てくださいとなりますね。

そういう観点では、よく言われるのは、「披露宴ではないんだから弔電を披露は…」とかの話を聞きますが、確かに葬儀は、遺族やその関係者にとって平時ではないので、そのようなご指摘ももっともかもしれません。

逆に、単純に”ひらきあらわす”という意味では、故人や喪家あてに届いた弔電を皆さんにお見せする? ま、内容を開示するという意味で捉えると、葬儀の場で披露という言葉を使ってもあながち間違いではないと感じます。

ただ、披露の”ひらきあらわす”という、その意味を突き詰めると、代読するよりも、皆さまからの弔電をパネルに貼りだして掲示する「弔電披露コーナー」として、弔電を披露するとの意味が適切なように感じます。

披露を使用する場って?

披露に関連する用語を調べてみると、披露宴はもちろんの事、披露会、お披露目、襲名披露など、比較的どなたにでも公にしてもいい内容が多いのです。関係する人間関係以外に、直接関係のない方も参加できるケースも多いのが見受けられます。

葬儀の場合は、故人や喪家と関係の深い方しか基本参列しません。ですので、葬儀自体を「葬儀披露会」とは表現しません。

そして、参列しているその関係の深い方々に対して、故人と縁のあった方のエピソードや弔意を披露する事は、言葉でも露 (あらわ) す事はできますが、披 (ひら) き、露 (あらわ) すをストレートに解釈すると、内容を見えるようにするとの解釈が合致すると思うのです。

限られた関係者の中で発信者の弔意を故人に届ける時、その言葉を発しない電報やメッセージを、その人に成り代わり伝えるのですから、無難に”代読”とするのがベターではないかと考えます。

披露宴でも、祝電を披露するは違うと思うケド

喪家から「披露宴ではないんだから披露は…」と言われて、いちいち、「いやいや、披露という意味はですね、披 (ひら) き、露 (あらわ) すとの意味がありますから、弔電を言葉で露 (あらわ) す行為としては、あながち間違ってはないと思うのですが…」なんて説明する労力を思うと、無難に表現している方がいいかなと思います。

それに披露宴だから祝電披露というのも大きな意味としては間違ってはないですが、これも、披 (ひら) き、露 (あらわ) すなら、祝電披露コーナーじゃないかなと思います。

披露宴での”披露”という言葉つながりで使用するのでしょうが、こっちはめでたい場だからお咎めしないんでしょうね。祝電も代読か紹介ではないかな〜と感じます。

で、弔電って必要なん?

いろいろと取扱注意の弔電ですが、これってまだまだ必要なんでしょうか?
おおよそ、届く弔電の中には故人やその遺族の住居地に在籍する衆・参・県・市・町の議員のセンセイ方からも、普段、言葉も交わしたことがないのにいっぱい届きます。

秘書の方が、葬儀会館の看板(どなたの葬儀ですちゅうヤツ)をこまめにチェックしてまして、電話がかかってきます。「あの〜、◯◯議員の秘書の◯◯と申します。今回のお葬儀の方は◯◯区の方ですかね?」と、個人情報ギリギリのところをうまく聞いてきて、該当者なら弔電を手配するって感じです。

地元選出の市町村議員と、あとは”前”が付く、前回、落選された先生方は非常に熱心です。
現職のセンセイは、議員報酬の中からその経費は賄えるのですが、落選され、今は一般人である”前センセイ”は、こういった弔電の費用も持ち出し。

しかも、現職議員では香典を出すと、公職選挙法にひっかかるので”出さなくて済む”のですが、前センセイは、出しても罪にならないし、逆に出さないとセンセイの印象が悪いので、弔電の費用と香典で、顔を出せば出すほど自腹が痛む仕組みなのです。

センセイの努力ほど、皆さんには伝わってないと感じますが

弔電の順序としては、本来、故人と関係の深い、遺族と関係の深い方を先にしますので、普段、言葉も交わしたことのない各センセイは後回しが当たり前なんですが、これをすると、
一番に葬儀屋に文句が来ます。「うちのセンセイが漏れていた。順序が違う」なんてね。

時折、パソコンで印字したものを持ってきて、「読んで!」と渡す秘書もいますし、ひどい場合、「手配してないんですわ、名前だけ言っといてくれます」なんてのもありますから、そこまでして名前を叫んでも、聞いているのは、そのセンセイを熱烈に応援している地元の町会のおじいちゃんくらいですよ。喪家はほとんど気にしていないんですケド…

センセイのがんばりを見習って、私たちも参列しましょう

私も、阪神淡路大震災の翌日に神戸で葬儀の進行を担当した時に、代表焼香の時に、現参議院議員の室井 邦彦(むろい くにひこ)センセイのお名前を「むろい」とも「むらい」とも聞こえるように取られたんでしょうが、あの時、センセイ方がよく着ていた戦闘服のような出で立ちで現れ、焼香後、「むろいやで!」と、凄まれました。お名前は、命です! ハイ。

こんな調子で、センセイ方の弔電の順番を気にして、名前を間違わないように気を使いながらって配慮すると一番先に読まないといけなくなります。そして、先に拝読すると、もっと大事な方の分は5〜7通ぐらい拝読した後になります。で、仕方がなく、合わせて10通ほど文面と肩書き、名前を呼んで、”お後はお名前だけでよろしおまっか”となるのです。

こういった行為自体に果たして意味があるのかどうか、最近は大きな疑問を抱くのですが、そろそろ弔電の出番もなくなるのではと思いながらも、なかなか存在感を出してくる。

お寺様からは儀式には必要がない存在と疎まれ、センセイ方からは順番を間違うな、名前をしっかり叫べと言われる。そしてNTTをはじめとした電報会社がせっせと、弔電以外にお香をセットしたり、プリサードフラワーも抱き合わせて、もう、弔電かギフトかわからない商品へと変貌している。

ま、気持ちを伝えるための商品なんですが、それなら原点に帰って、どれだけ忙しくとも、物理的にお参りできる距離なら参列するべきでしょうし、ほとんどが葬儀会館で行われる現状で、関西のお通夜は、その日のうちなら参列可能だと思いますので、どうか仕事帰りにお立ち寄りください。

簡素化が進む現代で、「どうしょう、弔電だけでええか?」なんて感じで済ますよりも、その場の空気は、その場でしか感じることはできません。

気持ちを届けるのは、自分の行動が一番だと思います。
そして、その場で感じる、葬儀というものの大切さを考えていただける機縁になればと願っております。

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