どうも、葬儀屋さんは立ち姿がパッとせんね

覆面をしてパンを食べる子供
覆面をしてパンを食べる子供

普段、何気なく立っている姿に自分の全てが出ているかもしれない。人の振り見て我が振りを直せとはいうけど、そもそも、それは人の振る舞いが良くない事を前提にしたことわざで、それは自分の事かもしれない。そんな気持ちで、葬儀屋さんに大切な立ち居振る舞いとは何かを考えてみた。

締まりがない見送りなんて見せないで〜

いつも通る道沿いに新大阪祭典があるのですが、なぜかよく出棺時とバッティングする。葬儀社の社員が一列に並んで霊柩車やバスなどを見送るのですが、この新大阪祭典に限らず、どこの葬儀社も立ち姿がパッとしないのが多いと感じる。だらしないと言えば失礼だが、言葉の通りだらしなく見える。

どこも流れはだいたい同じで、霊柩車に棺を収め、おもむろにドアを閉める。バスや自家用車などの乗車を促し、すべて整えば火葬場まで同行する担当者が霊柩車に一礼して乗り込む。「フォーン」とクラクションが鳴って、ソロソロと霊柩車が動き出す。お寺さんとバスがその後を追走する。

それを、葬儀社の社員が見送る訳だが、出棺した瞬間ダラーとなるところが多いこと多いこと。こちらは、すべての車両が出るまで意味なく警備員に動きを止められ、なぜか一緒に見送る事になる。その後、葬儀社の社員が残る訳で、この瞬間にダラ〜とした感じが噴き出している。ひどい奴は、たまたま業務の連絡だろうけど電話を取り出して話し出す。

この人たちは、誰かに見られているという感覚がないのかと感じる。会館の車寄せスペースにしても、その建物周辺でも、そこの社員、もしくはパートさんが立っていると「そこの人」と誰しもが思うのです。立ち位置もバラバラ、見送り後の行動もバラバラ、これだけでも違和感を感じるし、何かやらされている感が強くて見栄えが悪い。

どうせやるなら演じるべきです

葬儀の仕事に従事している人でないと、その葬儀社の人たちを見てはいないでしょうが、昨今、自動車販売店でも、お客さんを見えなくなるまでお辞儀して見送っているから、どちらが先とかは関係なく、一般の方は「あ〜、車屋さんでもやってるヤツやん。葬儀屋さんもやるんや」なんてイメージされているかもしれない。

事の起こりはレクサスからだと思うのだが、ある日突然、それは始まった。店舗の前でお辞儀してお客さんをいつまでも見送っている。現在は、トヨタもホンダも日産も軽自動車でも、自動車を販売することころならほぼすべての販売店でやっていると思うのですが、あっちもこっちも、帰るときにはペコリと見送ってくれる。

最初見た時、「へ〜、高級車を売るところは、そんなところもアピってくるのね」と感心したものです。この自動車販売業者の見送りも、スマートなのはレクサスで、トヨタもまあまあいい感じ。あとは、やっつけぽく見えるところもある。葬儀社の見送りは、これと同じように見えるやっつけレベルです。

スマートに見えるところは、見送る対象者がいなくなった時から社内ショールームに戻るまで演技を続けている。そこが違う。一礼をしている時でもリーダーとなる人間が頭を下げながら「はいっ、上げて」って感じで声をかけているんでしょう。複数名の者が同じタイミングで頭を上げる。ここが、葬儀社はバラバラ。ヒョコっと頭を上げる者がいれば、「はっ、まだや…」てな感じで、また一礼。おまんは、潜水夫か!

立ち居振る舞いでお里が知れますわよ

これをわれわれ大衆は見ているんですよ。おそらく、葬儀に興味がない方でも、否応なしに目に入るので見ていると思うのです。葬儀屋さんは見られているという意識が少ないのか自分の立ち居振る舞いが見えていないと感じるのです。これは、見送り時だけでなく、病院迎え、自宅訪問時から始まっているのですが、同様に締まりのないヤツも多い。

私の自宅近くの信用金庫が、地域貢献と地域の皆さんとのコミュニケーションって事で、月に一度、社員総出で朝から道路のゴミを拾っている活動をして、それを写真に収めて「地域活動、やってまっせ〜!」と店舗内の待合所あたりに飾っているのですが、朝の現場を知らない方ならちょっとした感心と親近感を持ってもらえるかもしれない。

ところが、ちょっとひねくれた三日坊主は、その朝の現場を何度か見てしまっているので、その写真を初めて見た時、ただのアピール行動にしか思えなかったし、写真に収まっているような爽やか感はなかったで〜!と、一人突っ込んでしまいました。だって、皆さん。真面目にやってる人もいましたけど、テキトーなやらされている感満載の人も見てしまいましたもん。

ほんの小さな行動でも誰かは見ているのです。逆に言えば、会社としての姿勢を誰かに見せるためのパフォーマンスなら、私も含めて複数の方が何らかの印象を持つ事に遭遇していますから、確実に見せるという行為は成功している訳です。が、それは諸刃の剣で、使い方を間違えると、せっかくの行動が白けたものになってしまう。それならしないほうがマシ。

自分で志を創作しないとやっていけないですよ、この仕事

ディレクター試験の試験官もさせていただきましたから思いますけど、皆さん真剣な面持ちで丁寧に接遇試験に対応されていました。ま、試験なんで同じような話し方になるのでしょうが、そんな気持ちをいつまでも大切にしていれば、喪家にも優しい担当者になれるのでしょう。が、喉元過ぎればではないですが、いつしかそんな気持ちも忘れてしまう。

最近でこそ葬儀業界も新卒採用が増えてきましたので、「よし、葬儀業界で頑張って行こう!感動できるセレモニーを担当するぞ!」なんてフレッシュな気持ちを持つ方もいるでしょうが、古くは葬儀屋さんに勤めるというのは、ヤクザな仕事してと忌み嫌われたものです。

志を持ってというよりも、分がいい仕事、金回りがいい仕事って感じで携わり、後から志をくっつけていく。死を生業とする事に対して自分を納得させる理由としてです。何を好き好んで亡くなった方を触る仕事をするのか。人の嫌がる仕事をする理由が、お金だけではやっていけないからです。

きっかけはなんでもいいと思うのです

知り合いに葬儀屋さんがいた。身内に葬儀屋さんをやっている者がいた。そもそも、実家が葬儀屋さんなどなど、どのようなきっかけにしても携わった以上、その道は極めるしかないのです。もがきながら自分の中にあるホスピタリティに気付かなければいけないと思うのです。そして、そこに葬送儀礼が存在する以上、学ぶべき点と守るべき点があると思います。

葬儀社に初めて勤務した時の気持ち、葬儀社を立ち上げた時の気持ち、そこにいつしか志が芽生え、それが継続するエネルギーになる。その線路に乗って、経験を積み重ねていくうちに数々のポイントを過ぎていくのですが、そのポイントの切り替えを間違えるとお金儲けという終着駅に行ってしまうかもしれない。

その結果、経験則から出る上手な話しぶりと、心の貧しさが生み出す葬儀は、まさに仏作って魂入れずのようなものになってしまうのでしょう。偽物ではなく、本物になるために時間を費やしたのに何かが変わってしまう。その象徴が現代の直葬業者だと私は思っていますけど。

内面に在るものがその人を形成するんでしょうね

逆に魂から仏を作るように、その人の志から自分の立ち居振る舞いが存在すると感じます。内面と言いますか、その人の思う理想世界が、自分の立ち姿に現れるんじゃないかなぁと、新大阪祭典さんの出棺姿を見てふっと思った次第です。

「カネ、カネ、キンコ、キンコ」なんて叫ぶ人が数年前には多発して事件を起こしていましたが、同じように凶悪な事を心に持っていると、そのまんまの雰囲気が出ますよね。これを凄みというのかもしれない。また、慈悲の象徴とも言えるような方だと側にいるだけで癒されるし、心が落ち着く。

そういう意味では、巡り合ってきた数々の葬儀社の社長さんの立ち居振る舞いは「ほぉ〜」とは感じる方が少なかったですね。その理由は、一つは私に徳がないから。徳分がないから葬儀の仕事をして徳を積ませてもらっているんだと思っていますけど、もう一つは、わがままなおっさんが多かったからと分析しております。

葬儀社の子供として生まれ、その地位と資産を引き継ぐ方もいるでしょう。また、自分で葬儀社を立ち上げて頑張っている方もいるでしょう。いずれにしても、その会社の打ち出す商品と言いますか、行う葬送儀礼の全てが、法人としての志の下に形成される立ち姿だと思います。

それが、一族の利益のためだけに存在するのではなく、大きく社会に貢献し、葬儀の文化を継承し、そして、何よりもそこで働く人々が幸せになれるものであってほしいと願います。

ちなみに、三日坊主の立ち姿はグニャグニャでして、最近は、ただの酔っ払いが早寝しているだけを涅槃の境地と勘違いしております。

日本ホスピタリティ推進協会より引用

ホスピタリティとは接客・接遇の場面だけで発揮されるものではなく、人と人、人とモノ、人と社会、人と自然などの関わりにおいて具現化されるものである。

 狭義の定義では、人が人に対して行なういわゆる「もてなし」の行動や考え方について触れていて、これは接客・接遇の場面でも使われるホスピタリティのことである。主人と客人の間でホスピタリティが行き交うが、それは一方通行のものではなく、主人が客人のために行なう行動に対して、それを受ける客人も感謝の気持ちを持ち、客人が喜びを感じていることが主人に伝わることで、共に喜びを共有するという関係が成立することが必要だ。すなわち、ホスピタリティは両者の間に「相互満足」があってこそ成立する。

 つまり、主客の両方がお互いに満足し、それによって信頼関係を強め、共に価値を高めていく「共創」がホスピタリティにおける重要なキーワードなのである。

 広義の定義では、ホスピタリティが主人と客人の二者間の話にとどまらないことを言っている。社会全体に対して、その構成員である人々が、ホスピタリティの精神を発揮することで、相互に満足感を得たり、助け合ったり、共に何かを創りあげることができ、それによって社会が豊かになっていくという大きな意味でもホスピタリティは重要である。

 ホスピタリティは一般的にはサービスを提供する企業と、それを受け取る顧客との領域で論じられることが多いが、決してそれだけにとどまるものではない。例えば企業活動においては、顧客以外のステークホルダーである従業員や、地域社会に対してもホスピタリティを発揮することが大切で、それによって社員の働きがいを高め、社員同士がチームとして創造性を高めたり、地域社会との関係性を高めたりすることで好ましい経営環境をつくりあげることができる。

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