宗教界の危機感のなさと、葬儀屋の慢心が辿る行く末は

エベレストの写真
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このご時世に、他を寄せ付けない雰囲気って

先日、ある宗教者の方のブログを拝見していたところ、「自宗以外は邪宗である」との強いメッセージを発信されている方を見かけました。

こういった表現を様々な宗教者の方からも聞きますが、特に、日蓮系のお寺様は、日蓮上人の生き様のごとく、激しい勢いでよく揉めてらっしゃるのが印象にあります。

私たち葬儀に関わる者が一番の影響を受けたのが、日蓮正宗とその檀信徒の最大団体、創価学会の皆さんとの決別で、当時、葬儀施行の進行方法が急遽変わり、現場は大変な思いをした記憶があります。

それまで、創価学会の方の葬儀には、日蓮正宗のお寺さんが導師を勤められましたが、その日を境に学会員の信者さんが導師を務めることになり、友人葬として儀式を行うことに。熱心に勤行を上げるがために、時間をオーバーしたり、極端に早く終わったりと…

当初は葬儀の流れ的にわからない事もあり、腰も低く接していた方も多かったのですが、年月が経ち、友人葬の経験を積むごとに、だんだん態度が横柄になってきた方もちょっと多い目にいました。

すみません。遠慮気味に申し上げすぎました。正確には、ふんぞり返って「おい!葬儀屋」的な言い方をされる方もいまして、まるでご自身が、御上人にでも昇華されたかのようにが正解です。

日蓮宗なり、日蓮正宗なり、日蓮系のお寺さんは修行の厳しさでも有名ですし、それゆえ、宗門の道を極めていらっしゃる方も多いとは思うのですが、だからと言って他宗は邪教であるとか、真なる神は存在しない神社にお参りに行ってはいけないとかおっしゃる意見には、宗門の、仏教の、宗教への扉を広く開くにあたってはどうかとも感じます。

コメント

  1. 烏丸 より:

    はじめまして。私は浄土真宗東本願寺派●●●●●派で得度して、僧侶になった者です。今まで、葬儀社に受け入れて貰えないので、派遣僧侶をめざしてました。今の所得の低さを考えると、核家族を考えると、大きな葬儀は減少するし、今までの有名な宗派でも、兼業でないと、生活出来ないからです。しかし、このブログを読んで、自分がいかに浅はかであるか、愚かであるかを知りました。問題は話を世間様に聞いてもらう。機会を得ることに尽きるとしりました。そのために、汗をかいて、歩くこと、就活や弱い立場や差別を受けてる立場へ寄り添うこと。これに尽きると感じました。これからも、どうか、現状を教えてください。

    • 三日坊主 より:

      鳥丸様

      コメントを頂戴いたしましてありがとうございます。

      長年、葬儀の世界で垣間見てきた事を書いておりますが、葬儀に関わる僧侶の方にも様々な事情がある事は承知しております。ただ、私の知る限りですが、宗教者のあるべき姿というのはこうなんだと感じた事があります。

      その方は山の麓から歩いて一時間ほどのところにある真言宗のご住職でした。

      当時、そのお寺がある麓の神社の権禰宜の方とご縁をいただき、また、仕事関係のメンバーと古神道を研究する会も発足した事もあり、「禊」を教えていただく機会がありました。

      「エイッサー」と声をあげながら滝に入る前の準備をし、その後、神社内のお滝場で頂きました。人工的に落ちてくる滝の中でしたが、初めての経験で何か特別な感覚があり、これが話に聞く修行か?と思うと、すぐに何かを得れるような錯覚に至りました。

      その後、これまた不思議なご縁でその神社のある山の山頂のお寺へお参りにいくきっかけが生まれ、これが先ほどの真言宗のお寺なのですが、そこのお滝場で頂戴する機縁を頂く事となり、週に一度、お参りとお滝をいただくという事が習慣になりました。

      ここでは九字を切り、光明真言を唱えながら、また、般若心経を唱えながら入るのですが、見よう見まねでやっておりました。物事がうまくいかない悩み、すなわち煩悩まみれの私がお滝に入る事で現生利益を得れる。いや、そう思ってはいけない。そんな気持ちの間で厳粛な経験をさせていただいたのですが、そんな時に声をかけてくださったのがご住職と坊守の奥さんでした。

      次第にご縁も深まり、色々とお話をする機会が増えた頃、初めて方向性を持った言葉として言われたのが「君らはな、あの下界に見える墓石のようなビル群の中で、例え小さくてもいいから成功するという経験を積まないといけない。その、何が原因でと言う因縁をお滝によって早く浮き出す事はあるけど、すぐに何かが形になって成果が出るわけでもない。全ては、己の生き様、御霊のあるべきところによって結果が変わってくるんやで。手を合わすのは私らの仕事。ここは君らの仕事場ではない。君らは仕事を通じて成功を経験するためのコンパスを合わせに来る場所やから、勘違いしたらあかんで」

      そのお寺は供養のために、その供養する相手の好みの味付けをし、納得するだけの量の料理を作ります。そして、納得するまで読経をあげます。納得するまという事はその仏さんの気持ちがわかるという事だと後々聞いた事があり、なんとも不思議なところもあるもんだなと思った次第です。

      その後、色々とお寺の行事を手伝う機会も増え、その都度、不可思議な事に出会う度に思ったのが「本物の宗教者って言うのは、神仏に守られ、縛られ、その力に命をかけているんだな」と言う事でした。休む事も無く、毎日が供養の日々。自由なようで自由でない生活。使命の元に強制的とも思われる生活を営む事を、我が使命と思っていらっしゃるその姿勢に、ただただ驚いたものです。

      そのご住職はこうとも言ってました。「必要なものは、必要なだけ神仏が用意してくれはる。だから、わしらはその上にいて、やるべき事を静々とするだけ」と。このようなご住職もいるんだと言うのが正直なところです。

      僧侶派遣に登録する方の意見もわかります。でも、その前に宗教者を目指し、志を持ってその勤めを行おうと初心に思った事と、生活というか、寺の維持に追い回される姿のギャップに悩みながら一般的なレベルを求めるのはどうかなと思うのです。

      一般人でも、生計が立たなくなったら何かが間違っている訳で、そうなればやり方を変えるか職を変えるかしかない訳で、生きていけないならなんでもやろうとと思うのは当然だとは思いますが、宗教者として生きて、人(仏)としての生き様を求める世界なら、どう生きるべきかは答えがあると思います。

      そして、お世話になったご住職が言うように「見えない世界があなたを必要としているなら、神仏(エネルギー)が生かしてくれるはず」と言うのが本質ではないかなと、素人ながら、そのような人と交わる事があった私としては思う訳です。

      私は宗教者でもないし、酒池肉林の世界で欲望まみれの愚生ですが、それでも自分にできる事を発信しようと拙い文章ながら業界に文句を言っています。これで変わる世界でも無いですし、自己満足の世界かも知れませんが、何かのきっかけにはなるかも知れないとは思っています。

      ですので、宗教者として立とうと思った気持ち、修行中に思った気持ちを大切に時を過ごしていただければ、それぞれの生きるべき道が見えるのではないかと思い、僭越ながら記事なり、言葉を記した次第です。

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