葬儀文化を考える、自治会長、町会長を町村の嘱託で雇用してみたらどうか

たくさんの顔写真
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葬儀に自治会や町会が参列しなくなってきている。家族葬が増え、直葬なんてものがまかり通るから起きている現象だが、このままでいいのだろうか。人と人が生活する中で起きる問題解決の一つとして、町村が自治会長、町会長を委託雇用してはどうかと考えてみた。

地域コミュニティの崩壊が、直葬を生む原因ではないのか

最近は、自治会長、町会長などが葬儀に参列する事が少なくなってきた。葬儀委員長は古くからも依頼する事は少なかったが、それでも自治会・町会には連絡は行ってきたのです。そもそも家族葬が普及というか、そのネーミングの便利さに消費者が慣れてしまった頃から、参列者そのものを打ち切る言動が増えているからですけど。

村の葬儀が当たり前の時代には、その村だけでなく、兄弟や親族が嫁いだ先の隣村からも参列に来たり、花や樒を出したりと付き合いがあったのです。葬儀を知らせるというのは、「これから先もお互いにお付き合いする事」を確認するための一つの習わしでもありました。

香典をもらうと、返さないといけない。参列してもらうと、参列しなければいけない。花を頂いたら、花を返さないといけない。こういったやり取りが近隣の付き合い、親族同士の付き合いの確認であり、コミュニティの継続のためには必要な事だったのです。

香典辞退の弊害

しかし、香典を辞退する風潮が生まれ始めた時から、それらは、ポツリポツリと切れていったように感じます。頂くと返さないといけないので頂かない。という事は、「あなたとは、今後、お付き合いをしませんので」と、無言の意思表示をしている事になります。

この頃、現場でよく見かけましたが、香典を辞退しようとする喪家側も、その意味をわからずにやろうとするから、どこから線を引いていいか分らない。そうすると、極めて親族に近いような関係性を持った方が参列して、香典を出そうとすると受付から「喪主様から香典を辞退するよう伺っております」と無下に言われる。

その方は、「なんでやねん! 故人とわしは、身内同然の付き合いをしてきたんや」とお怒りになるわけです。喪主(息子など)とは付き合いはないが、故人とは兄弟同然の付き合いがあった。故人のためにお供えをしたい。それをなぜ、若造が拒むのか。返しなんかいらんから、気持ちを供えさせろ〜、となる訳です。

ナイショでお願いします

そんな時代を過ぎて、徐々に町会にも知らせない。会社は休まないといけないから、一応、連絡はしておこう。無断欠勤になれば、迷惑もかけるし、給料にも響く。でも、会社に言うと、お参りにくるよね。さてどうしようかとなった訳です。

で、その頃使っていた言葉が密葬で、この「密葬でやりますので」という意味は、そもそも間違っているのですが、受け取る側はなんとなく、「あ、身内でするのね」となるのです。

しかし、密葬は本来、生前にお付き合いのあった方への連絡を徹底する、その準備に時間を要する事から、そして、遺体の保存方法が限られている当時の日本では、数日中には荼毘にふさなければならない背景事情がありましたから、取り急ぎ身内を中心として葬儀を行いますと。

そして、連絡の不備があって周知できていない場合は、事情を察してその失礼を許してくださいとの意味や思いがありました。ま、聞いてないからって文句を言わないでねという事です。

後に行う予定の本葬では、皆さんに連絡を徹底しますし、今日、密葬に参列してくださった方は、本葬の日時をお知り合いに伝えてくれると助かるんですけど、失礼が減りますからとの意味もあります。とはいえ、社葬などで本葬を行うほどの規模になると、訃報連絡を行わなくとも、取引先とかの参列する側が気を遣って聞いてきますけどね。

個人で密葬と本葬を分けてするケースは、地方での慣習か、死亡地が地元ではなく旅行先、出張先などであった場合、もしくは、地元の名士ぐらいで、通常は、密葬、本葬を併せて行う事が普通です。お金もかかりますから。

イメージに振り回される価値観

それから、それから時は過ぎて、密葬という言葉はなんか「内密に」という、ダークなイメージがあることから根付かず、そこへ打って変わって登場したのが家族葬でした。「家族で葬儀をしますので」と言われれば、故人を大切にしている雰囲気があり、あっという間に浸透しました。

葬儀屋さんが、ガンガン売り込んでくる事への自衛策にも使える。世間からは少し距離を置いて葬儀をできる。身内以外の連絡や準備に気を煩わせたり、費用がかさまない。その響きは、一般人は参列しにくい空気感を持っていますし、当然、町会にもその旨を伝えるから、なんとなく参列しなくていい雰囲気になってくる。

受付も身内でするし、会社の関係者や友人に頼まなくてもいい。そもそも、身内だけですから受付をしなくても問題はない。形だけ設営する事になります。そんな煩わしさからの解放を選択したために、人間関係が希薄になってしまったのです。死を知らせない。そんな風潮が生まれてきました。

町会が出ないと、ご近所さんはどうしたらいいのかわからなくなる。お参りしたいけど、参列してもいいのだろうかと悩む。有志だけが弔問に訪れて、いざ、香典を出そうとすると、これまた辞退される。そういった風潮が徐々に人との付き合いを切っていく事になります。

基本、誰にも知らせないって無理ですから

そこまで徹底して身内で葬儀をするなら、病院から直接、葬儀会館に安置して葬儀を行うしかない。会社にも出勤して、その空いた時間で葬儀をするしかない。自宅へ喪服を着用しての出入りは一切しない。葬儀終了後、お骨上げを済ませて自宅に戻るときも、普段着に着替えて戻らないとムリです。

でも、数日、数ヶ月するとご近所さんや、お知り合いから、「お母(父)様はお元気ですか?」と、見かけないから聞かれると「いや、先日亡くなりまして。葬儀は済ませたのですが」となります。

すると、今やネット時代ですし、ネットがわからなくてもメールぐらいはご年配の方でもするし、もっと言えば、自宅の電話の時代から携帯で持ち出しているのですからから、あっという間に連絡が回る。で、弔問に訪れる方がポツリ、ポツリと現れるのです。

このような風潮と流れで、現在は町会の存在も薄くなってきました。自治会や町会にも入らない人が多くなり、地域コミュニティが機能しなくなっています。

先の東日本大震災、九州熊本地震もそうでしたが、大きな震災が起きた時、ご近所の存在や家庭環境を知っている事が大きな強みになって命が助かるケースも多々ありました。しかし都心部では個が優先され、隣近所とも付き合いがない。本当に家族が一番で、他人は圏外です。

葬儀屋なら、葬儀をちゃんとしようよ

そんな煩わしさを解消しましょう。喪主様のお仕事の邪魔にならない、負担がかからない、そんな時、1日葬が便利です。なんて事を提唱するアホな葬儀屋がいるからダメなんですよ。事業として利益を得たいのはわかりますよ。で、ニーズだなんだと、消費者からも聞かれるから「自社も準備して、葬儀プランに入れておこう」なんてのもわかりますよ。

でもね、やっちゃいけない葬儀もあると思うのです。ニーズはどこかの葬儀屋から始まっているんですよ。消費者が葬儀のスタイルを提唱するのではなく、どこかの葬儀屋が施行を確保するために隙間を狙って打った鉄砲が、たまたま一部の消費者に当たっただけで、それを一億総意見みたいにマスコミも食いつくからダメなんです。もっと深い所を考えませんか?

葬儀と地域コミュニティの関係を希薄にした原因の一つに、葬儀屋さんの事業姿勢もあると思いますし、少なくとも、密葬や家族葬なんてネーミングを生み出した葬儀業界の影響は大きなものであったと考えています。

大きな流れの始まりは、ほんの小さな事から起きるのです。事業経営の中でのアイデアかもしれませんが、それが結果として日本の文化を崩壊させる事を加速化したとは誰も思っていないでしょうね。

葬儀委員長はどこに行った?

葬儀に町会が参加しなくなって随分と時間が経ちましたが、これも時代の流れなのか。先日、あるツイッターで葬儀委員長を委任するサービスがある事を知りました。その地域では、葬儀委員長を立てる風習が残っているが、なり手がいないと。で、関係性のない方を有料で派遣するという。結婚式でもこんなサービスありましたよね。参列者派遣みたいなのが。

これも、葬儀における慣習だと思うのですが、結婚式では「結婚委員長」なんて昔からない。でも、葬儀は、葬儀委員長が存在していました。ご近所の息子さんや娘さんが結婚するとなっても、「結婚連絡」なんて、町会に回さない。でも、葬儀は、「訃報連絡」が回ってきます。

結婚式は、家と家の結びつきであり、当然、身内が主であり、ご近所さんは「小さな頃から知っていた子が結婚する」事を、端から祝うものであり、結婚式に参列する訳ではない。自宅で祝言を挙げる時代ならば、まだ、同業すなわち、現在の町会における班単位では参加したかもしれない。これは、村に入る儀式でもあり、祝言を挙げた家と村の家を結ぶ儀式です。

で、その集落の一族として生きていく上では、協力する事が必須であり、ご近所同士のコミュニティを保っていくため、生活上のルールが存在していたのです。これが、核家族化によって、また、生まれ故郷を出て、別の場所で一人暮らしをするなどして崩壊しようとしている。

でも、葬儀はその町村で共同生活をしてきた仲間の死であり、住民が一人確実に減るのです。家同士のつながりが町村を形成している要素なので、一人の死によって、その一つの家が途絶えるかもしれない。

その結果、町村の生産性にも大きな影響を与える恐れもある。一人の死によって受ける影響は、町村民の生活にも密接につながっているからこそ、皆で死を尊ぶ習わしが葬儀組の形成であり、その長が葬儀委員長であったのです。

地域コミュニティが崩壊すると、日本ではなくなるのではないか

自治会、町会組織自体も存在が危ぶまれる時代です。多くの方は、自治会や町会は高齢の方が集まっての存在ぐらいにしか思っていないでしょう。カラオケをしたり、ゲートボールをしたりして、心身の健康を増進しようとの活動が、世間と距離を置いている。自分たちには関係ないと。そして、葬儀でも存在の必要性が徐々に無くなってきている。

最近、公園では子供達がボール遊びをできない、禁止しているところが多いと聞きます。子供が騒ぐのがうるさいとかが理由です。子供達は近所に迷惑をかける存在のように扱われてしまっている。また、子ども同士は無邪気に遊んでいいても、親の生活スタイルが違う事で、その親が文句を言う。どちらか一方の意見を支持するともめるので、折衷案で妥協する。

結果、子供は学校でボール遊びをするぐらいしかできない。我が子がかわいいのは昔からですが、子供同士のコミュニティに親が干渉しすぎる時代です。子供会が残っていても、その行事には参加させる事も少なく、まして、子供会の旅行なんてほとんどやっていない状況です。地域のイベントを行っても参加しない。

子供が他人の中で、世代の違う人が集まる中での生き方を経験し、学ぶ事は大切なものだと思うのです。リトル社会の練習です。そこで経験した事がその後の人生で活かされるかもしれない。世代を超えたコミュニケーションを学べる場でもあります。無邪気な内に、社会が教えてあげる事も大切な教育だと思うのです。

自治会長・町会長を区が委託雇用すれば活動範囲が広がりそう

三日坊主は以前から、国が国民のために葬儀の規格を制定するべきではないかと思っています。地域コミュニティを継続する上での問題点は、基本、ボランティアであることです。町会費を集め、町内の集会所の維持管理、街灯の電気代の支払い、市の広報を回覧する、そして、地域の問題や葬儀が起きれば対応する。これらが全てボランティアです。

なり手がいないから、高齢者に任せてしまう。仕事が忙しいから参加できない。そうこうするうちに葬儀は家族葬が流行って、町会は参加する余地がない。本来、町村は人口が増えることはウェルカムなはずです。住民が死亡し、人口が減ることは大変な事態が発生していることになります。

住みやすい地域を守り、安心して子供を育てられる環境を整えるのは、市や県、そして国単位の仕事かもしれませんが、まずは、町村です。そのために町村が、住民のまとめ役でもある自治会長、町会長が行動しやすい環境作りを率先する事が第一ではないでしょうか。

国民葬作って欲しいんですケド

国が、県市が、国民のための葬儀を制定し、安価で内容の充実した葬儀を行う環境を作る事ができれば、直葬なんてものは生まれてこないのではと思っています。議員が意味のない弔電に公費を惜しげもなく使うならば、その費用を国民の葬儀のために活用する事はできます。

国会議員や県市の議員がこぞって弔電を打つよりも大切な事ですし、この国を代表する議員の方が大切な国民への弔意をこぞって示すならば、違う使い道を考えるべきです。国から県市へ、そして一番密接な町村の職員が、国を代表してお金のかからない方法、自転車などで葬儀のサポートを行い、国の代表として弔意を表す行動をとるべきではないでしょうか。

その代理として、地域の事をよく知っている方、長らく市町村に住む重鎮に、その役目を委託し、各町村の自治会長、町会長として雇用し、住民と市町村が繋がることによって、国とも繋がる。安心できる国になると思うのですがね。

国民のための葬儀を負担の少ない費用で行う「国民葬」を、安価で制定し、施行内容については、世界に対しても、国民を憂う気持ちとして恥ずかしくないものにする。それでも、その内容では葬儀をしたくない方に対して、葬儀社は内容の濃い、施行レベルの高い葬儀を販売し、ジャンジャンお金を貰えばいいんですよ。

ホテルも一流と言われるところは、サービス内容、施設内容、歴史に違いがあるから、同じおような空間に宿泊しても値段が違うのです。一泊30万円でも取れる内容でサービスを提供すればいいだけです。

儲けるところは庶民からではなく、糸目をつけずに支払える方から遠慮なく高額な葬儀を販売すればいい。そして、そこで競争してください。葬儀社も国民葬以外は、200万円からでもいいんですよ。その金額でも選んでもらえる施行内容、社員のスキルレベルに投資すればいいんですから。

そんな声なんですが、誰か国会で話してくれる議員さんはいませんか〜

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