立ち止まる時間(ツボ)を持つことが終活ではないかと思う

岩の先に座る女性
岩の先に座る女性

全国にある神社仏閣、パワースポットと言われるところは、何かを「観じ」させてくれるツボだと思います。自然の中に存在する気付きを体現する事が、本当の意味での終活ではないでしょうか。そんなところから葬儀を考えてみてはいかがでしょう。

まず、葬儀屋さんを知ってください

葬儀屋という職業。現在でこそ法人化し、大手と呼ばれるところも出てきましたが、その成り立ちを振り返れば、古くは忌み嫌われてきた仕事でした。ほとんどのところは家族経営で行ってきましたし、他人がその業界に入ってくるのは稀で、家族総出でとか身内同士が手伝いあって仕事をこなしていたのです。

葬儀屋を代々やっているところで子供が一人ならその子供が継いでいましたし、女子の場合、婿養子をとったりする。また、複数の子どもがいる場合、誰かがその看板を継ぐけども、残った子供達は別のところで違う看板を上げたりする。これは、親がそうさせるケースもあるし、子供が独立を望むケースもある。兄弟で協力しあってというケースはなかなか難しい。

親族にしても同様で、仕事が入れば手伝いに行く。その内に仕事がない日をもったいないと感じだす。すると、自前で看板を上げて葬儀屋を始めたりするのです。仲良くお互いに協力しあう関係になればいいのですが、ま、基本は仲良くないケースがほとんどです。葬儀屋同士、親族が多いけど、それを世間に知らしめないのもこういった背景があるからなんです。

葬儀バブル期の弊害

この時代に葬儀屋なんて、実家がそうなら仕方がないけど他の人が起業するには選択肢としては少なかったと思うのです。「手っ取り早く儲かる!」という発想と、下請けからの脱却を図ろうと、仕出し料理屋や貸衣装屋などが起業し参入してきます。現在、何十億、何百億円と売り上げる互助会にしても、元は仕出し屋、貸衣装屋なんてのも多いのです。

その後、老舗の葬儀屋も含めて少し経営センスを持った者は会社を大きくしてきたし、時代の波も後押しした。バブル景気に乗って葬儀費用は高騰し、ちょっとぐらい社内に不具合があっても、消費者とのトラブルがあっても、それらを全て飲み込んで成長してしまったのです。残念ながら、自らを律する規律の制定や組織を改革する機会を失わせたとも言えます。

未成熟なまま大きくなった葬儀屋の社長の多くはカリスマ経営者と呼ばれ、絶対権力者として君臨する人間の顔色を伺う社風も多い。この影響は下請け業者にも反映し、基本的に葬儀が一件入ると呼ばれる人たちや下請け業者などは「受注→お金が入る」仕組みなので、社員同様に社長に取り入ろうとなります。

おべんちゃらも出てくるし、接待や色仕掛けもある。それだけならまだしも、足の引っ張り合いなんてのも出てくる。ま、良くある話ですが、当時の葬儀屋は、ほぼ中途採用だし、他社での採用は到底無理なトラブルメーカーも普通に雇っていたので、失礼ながら相当レベルが低かった。そこに意識レベルの低い社長と絡まってややこしい世界が出来上がってきたのです。

いつまでたっても、葬儀屋です

これが未だに根っこに残っていると、私は長らく業界を見てきて感じます。まあ、私が葬儀の仕事に就いた時でも「葬儀屋なんかに…」と周りから煙たがられました。少々、荒っぽい業界上がりの人間も多く出入りもしていましたから、モラルも低いし、切磋琢磨して技術を磨くとか、喪家の事を考えてなんて世界でもなかったのです。一言で言えば、横柄な世界です。

現在、法人化したり、ホールディング化したり、また、サイト上では爽やかなイメージが先行して何となくの安心感が漂ってはいますが、「受注→お金。仕事→お金。社長→絶対権力者」という、この根っこが無くなっているとは感じません。もちろん、ビジネスなんで儲けて当たり前なんですが、どうも短絡的すぎる上に反省と提言をできない取り巻きが悪すぎる。

キレイな言葉で飾った、葬儀に対する理念は絶対権力者である社長の魂の本音なのだろうか。業界を知る私から見れば絵に描いた餅のようにも感じてしまう。そして、その悪い慣習を踏襲したかのような直葬専門業者、葬儀紹介業者、終活業者などの偏った情報発信により、葬儀もどきのような商品が生み出されていく。彼らの価値観なんて古い葬儀屋となんら変わらない。

葬儀について、お互いに考える時だと思います

葬儀の価値観も変わったと言われますが、これを変えてきたのは葬儀業者です。消費者のニーズがとも言いますが、そうではない。安くていいものなら大歓迎ですが、消費者受けするところを狙っているだけで、その姿を見る限り、葬儀や宗教においての将来を考えてもいないだろうし、子供達の未来に何を残そうとしているのかもよくわからない。

親が亡くなればAmazonから棺と骨壺とお寺さんを発注してなんて、供養の煩わしさから逃れるような葬儀文化なんてのを、「事業者の儲けの理屈」だけでネットを通じて拡散する行為は、命・生きるという事について、民族的、文化的、宗教的な側面から見ても、小さな頃から学ぶ機会と空間を奪っていくことになります。

葬儀に多少なりとも費用と時間はかかるものです。そして、手間のかかることでもあります。体質の変わっていない葬儀屋も、あなたの身近にあります。表面上からは見分けがつきません。情報開示を行っているからいい葬儀社とも言えません。そんな業者の都合に合わせるのではなく、自らが、時間と機会を創造する葬儀をもっと考えるべきではないでしょうか。

生死を意識できる環境は側にあります

爽やで親切そうなイメージで、自社の施行誘致に必死になる業者を選別する知識も消費者にはもっと必要です。安易に簡易な葬儀に逃げ込むのも一つの方法かもしれません。終活というワードにつられ、エンディングノートをやってみるのもいいかもしれません。

でも、もっと大切なのは、家族とともに過ごす何気ない日々の時間の中で、表裏一体の生死を意識する事ではないかと思います。生きたり死んだりの「生命の循環」は常に近くにあります。自然はその尊さをいつも教えてくれています。時間の概念が早くなり、つい、見過ごしているから気付かないだけではないでしょうか。

自分にピッタリとくるツボを探すのが終活

そんな時、宗教は立ち止まる時間を与えてくれます。神社仏閣など、その場所へ行く事で時間も止まります。また、聖地は人間のツボと同じで、そこに行かないと「効かない・聞かない」のじゃないかと感じます。

大きなエネルギーによって生かされている「気付き」は、そこへ赴くからこそ得ると思いますし、歴史や文化、また、その存在自体に触れる事で「観じた」ものを大切にしていただくことが、本当の意味での終活ではないかと思っています。

死は、最も古くからある人間の悩みの種です。古代より生死の苦悩や理解を深めるために自然と神仏に祈ってきた行動と、現代で言うところの終活は共通する事であり、それを解決するためのヒントは自分のツボ探しではないかと思っております。

そして、流行や業者の都合に左右されず、そこで得た理念や価値観に立った葬儀を行っていただければと願っております。

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