お寺さんの役目って葬儀がメインじゃないんだけど、本当の存在意義が伝わってないですね

若い僧侶
若い僧侶

仏教は、何も葬儀のために存在している訳ではないのですが、死を通して生きる意義を考える機会での場では、その力や存在は大きいと思うのです。大切な機縁を、生きるために活かすには何が必要なんだろう。

現実感のない、死の世界

先日、あるお寺様から葬儀に関してのご質問があり、最近の葬儀の風潮は、死から学ぶもの、感じるものがなくなっていく事への懸念をおっしゃっておられ、それらを奪ってしまう直葬を憂う気持ちを頂戴しました。そんな葬儀を見て育つ、子供達の将来を案ずる気持ちもです。

お寺様や葬儀業界関係者から見れば、死は当たり前に存在するのですが、いかんせん、何十年に一度のペースで経験する事になる一般の方は、死への意識が低い。日常の生活の中で「ヒヤリ」とする事があって、「死にそうやった」と出る言葉ほどの現実感は少ないのです。

私も含めて、多くの方は自分は死ぬとは思っていない。朝は当然のようにやってくる。だから明日の予定は、ああだこうだと考えるし、数週間先、数ヶ月先の旅行などの予定にしても、当たり前に生きていると思っているから決めていけるのです。

日々、神棚やお仏壇に手を合わせるような生活習慣があれば、動の空間に死を結びつけるポイントを設けることができ、ふと、考える機会もできますが、ご承知のように核家族化、住宅事情の変化によりそれらは身近には存在しない。死んで初めて要するものになってます。

死を考えるきっかけ「終活」でもそれは、業者の思惑がいっぱいなんです

終活などもブームとは言われますが、マスコミにしても話題として取り上げれば食いつくかもという、視聴率や雑誌・書籍販売部数を伸ばすためのアイテムでしかありません。内容も精査しないし、事業者の都合のいい言葉ばかりが並ぶ、いわば流行り物ネタです。

葬儀社においては見込み客の囲い込みでしかないし、その葬儀社とも繋がっている資格取得を謳う終活事業者は、相談を足がかりとして、初級・上級資格を得るための試験費用、セミナー講習費用、ロゴ・名称使用料、資格更新料などを継続的に支払ってもらい、子が子を産むたびに利益を手にして裾野を広げるシステムです。

なので、終活という言葉だけに乗せられた方は、セミナーを受講して「あ、人は死ぬんだ」という事を再認識するだけですし、気付かないうちに意味のない有資格者となって、団体の集客のために働く、鵜飼いの鵜となっていくのです。

事業者の看板となる専門家の相談員(弁護士・司法書士・ファイナンシャル・プランナーなど)は、親から受け継いだ大きな土地や家屋がある。広い農地がある。ビルやマンションのオーナーでもある。そんな方を求めて、終活を依頼受注の窓口としているだけですから。

ネット上での死の情報発信

ご承知のように、このような葬儀に関するブログや情報を発信する人々は、その仕事に従事していたり、過去に経験がある方、また、事業主が色々な思惑を持って発信しているケースがほとんどです。消費者はマナー、しきたり等、ありきたりの情報なんていらない。

最近、聞かなくなってきましたがDIY葬などと称して、自分で葬儀をやった経験談をブログに上げている方もいますが、これは特殊なケース。一時の話題性はあっても、結局のところ一般の方だけでは難しい壁も多いのです。それに参考にはならない。

何か施行に結びつくモノは無いかと、血眼になっている業界と違い、一般の方は本当に困っている方を除いて冷ややかです。そんなに死ぬ事に対して関心もない。なので、このような葬儀ブログはたくさんあるけど、そんなに注目される訳でも無い。

お陰様で、三日坊主的には、そこそこのアクセスもいただいていますが、他にも貴重な葬儀情報を発信しているサイトがあっても、共に皆さんが、がっつり食いつくような話題ではないので、知り得る機会が少ないのでしょうね。

そして、サイト上で葬儀に関する情報を得よう、見てみようという方は少しでも死を意識していますが、多くの方は、スマホを手にゲームに興じる。若い方ならまだしも、中年の男性の方が必死でやっているのを見ると、自分や周りの人が死ぬなんてありえないのでしょうね。

お寺様の役目と葬儀屋の責務

一般の方の意識、業者の意識、こんな環境の世の中なのです。それらを結びつける唯一の機会が、現在では残念ながら葬儀の場でしかないとすれば、死を通じて生きる意義を考えるきっかけを生かすも殺すも、そこから先は宗教者の努力しかないと思うのです。

一人の死が数十人の心に残せるものを作れる機会。その関係性が続くための結びが足りていない。そのコアを一つ作り、また一つ作る。地味な事ですが、これまで大切にしてこなかったのでしょうね。当たり前のように存在していた檀家に対しても同様かもしれません。

俗的な表現で申し訳ないですが、その時が唯一のアピールポイント、お見知り置きの場なら、営業努力が足りていないと思います。何十年と努力し続けていたら、ご自身の修行にもなるでしょうし、そのお寺様のファンもできると思うのです。

結果、私たちが日常で足を運ぶ機会も増えるかもしれない。悩みを相談したり、瞑想にふけってみたり、何かに迷った時にはそこへ行き、自分の指針を正しい方向へ合わせにくる。そんな人生の修正場所、気づきを得られる場がお寺でないとダメだと思うのです。

いくら便利になっても、人間の本質は変わらない。ご飯を食べないと生きていけないし、水や空気も必要。仕事をして収入を得ないことには生活できない。

その中で軋轢や問題が発生したら一人で解決できるかもしれないけど、やはり助けがある、周りの存在あるから勇気も出るし、前を向いて進めるのはご承知の通りです。

その本質と仏の本質を交える場がお寺であり、宗教者の役目。そこへ結びつけていくためにも、ハイテクや目新しいものばかりに目を奪われるのではなく、値段で葬儀の本質を否定する商品を販売するのでもなく、儀式をきっちりと行う責を持つのが葬儀屋の仕事です。

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