終活商法って本当に供養を考えてますか?

黒板を挟んで教義する二人の人形
黒板を挟んで教義する二人の人形

終活って自分のためだけですか?

そもそも終活ってなんなんでしょう。就活の場合、新たな人生の始まりである就職活動なのですが、終活の”終”は、終了・終焉・終わり・終(つい)の・終(つい)ぞ、なのでしょうか。
何れにしても、終わる事、停止する事についての活動なのは皆さんご存知のところです。

死と向き合い、死を考える。死の先には何があるのか。自分の死について不安になる事よりも、今を前向きに生きるため終活を考えましょう。なんて事をテーマとして終活事業者は提案していますが、自分から後の世代ではなく、自分より前の世代の事を大切にする終活活動は、あまり聞きません。

昨今の終活ブームを見ていて感じる事は、自分の死や、自分の周りに残る思いや資産管理に懸命で、自分以前に亡くなった方々の死に対して思いを馳せる、供養を考える事が出来ていないと思うのです。例えば両親であったり、祖父母であったり、懇意にしていた友人や知人、その方々の死を自分に置き換えて”観じる”事の大切さをテーマにはしていないという事です。

死ぬ時に考える事って… 皆さんはどうですか

現在の終活事業者は、その心配事に対してのアピールやアドバイスは多いが、そのどれもが生きている、お金を持っている方々をターゲットとした活動であり、言い方は失礼ですが、もう終わった方、お金を使い切った、すでに亡くなった方は終活事業者のターゲットではないという事です。

人生を終える時に考える事って、皆さんは何を一番に思います? 伴侶や子供たち家族の事、親の事、自分の身の回りの事、ローン・借金、資産、預貯金、へそくり?、愛人?、すべて、”???”なのですが、私なら一番に考える事は”命が終わる”事への恐怖ですね。

死ぬ事を栄誉と考える国もありますし、お国のために死ぬ事を良しとした時代もありましたが、やはり、私は、”死ぬ”なんて事を考えた時、まず、”怖い”と感じてしまいます。
考えてもわからない、先の見えない、それこそ、あなたの知らない世界であると思うのですが、それだからこそ怖いという気持ちはあります。

先が見えない事への恐怖は、肝試しも同じだと思うのですが、暗いというだけで私は恐怖を感じます。怖いという感情は、どこにでも付きまといます。高いところが怖い人もいれば、暗いところが怖い方もいる。”恐怖に打ち勝つ”なんて言いますが、打ち勝てないです。

結局、何で怖いという感情が芽生え、それを打ち消そう、打ち消そうとするのかを考えた時、その先に死ぬことは苦しい事と考えるからではないかと思うのです。
”死ぬ時には眠るように逝きたい”、そう願う想いの裏には、痛いとか、苦しいのは嫌だという恐怖ではないでしょうか。

痛い、怖い、死んでしまうかも

紙の端で手を切ってもやはり痛い。包丁で深く切ったら、なおさら痛い。骨折なんかしたらもっと痛い。私は、右足の甲のヒビと鎖骨骨折までは経験がありますが、痛さが全然違った。
鎖骨骨折した当日の夜なんて「こんな痛いのにどうやって寝るの? これまで鎖骨を折った人たちは、この痛みに耐えてどうやって横になったんだろう」と、泣きそうになりながら真剣に思いました。

この時は、本当に”あっ”という間に転び、恐怖とか、死ぬ!何てことを考える間もなく怪我をしましたが、じっくりと時間をかけて怪我をしたら、やはり相当の恐怖を感じるのでしょうね。よく、生死を分ける事態の時に、”走馬灯のごとく、自分の人生を振り返るように見える”なんて言いますが、そんなヒマもなかった。

これまでにも車を運転していてひっくり返るなど、大きな事故にもあってきましたが、幸いにも命は失う事もなく生かして頂いてます。でも、何かが一つ違えば死んでいたかもしれない状況でした。

もし、あの時、あそこで、なんて事がいい方に連鎖して、たまたま助かってますが、そのままあの世へ行っていたかもしれない。最終的に生きている状況だったのが、もし、もう一つの選択肢の”死んでいた”になっていた場合を考えてみると、その結末を迎えるまでのわずかな時間の中で、死ぬ事への恐怖を感じる時間はなかったですね。

死ぬ恐怖よりも、自分がこのままどこへ流れていくんだろう。ヤバい。ヤバい。と思うだけでどうにもできない。もう、流れに身をまかせるというか、なすがままなんです。コントロールできないから事故になっている訳で、そんな状況下では、ただハンドルを握っているだけでした。

死を迎えるかもしれない時

もし、あの時で終わっていたら、ドーンで意識はないのでしょうけど、その後の世界は行って、帰ってきた訳ではないので、全くわからない。私にとって、”あの世”は、想像の世界でしかない。

生きているうちに死の世界を考えた時、心も体も自由なので、素敵な世界とも思う事は出来るし、負の想像もできる。(ほぼ、こっちを考えるのでしょうけど)自由だからこそ恐怖を覚えるのではないか、不安を感じるのではないかと思うのです。

だからこそ、古くから死後の世界が豊かで、安心できるものである事を願い、宗教的な建築物を作ったり、副葬品をたくさん用意したりと様々な事をやってきたのも歴史ではないでしょうか。

自分の自由がきかない、しかも、死という結果を迎えるまでの時間が短ければ、短いほど、そんな恐怖や不安を感じている間がない。

逆に、”死ぬかもしれない”って状況下を迎えた時に、自分はこの後、生きるのか、死んでしまうのかという結果を迎えるまでの時間が長ければ、長いほど、恐怖や不安はより一層、増していくのでしょうね。

言い難い恐怖を感じて亡くなった方々の思いを考えると、本当に供養する事の大切さ、怖い思いをされた事を案じて、故人を思い続ける事が大切だと思います。

宗教、宗派を問わず、供養の心は大切だと思う

終活事業者が次々と有資格者を生み出し、終活の大切さを世に広めてなんて言ってますが、その資格は、日本で制定される様々な資格と比較してみて、何の意味もない資格です。

一般社団法人が規格、発行する、こういった終活アドバイザーなどの資格は、その法人団体が有資格基準レベルを制定し、試験などを行い、必要とされるスキルを持つものに対して発行されます。試験はインターネットで受験できるものもあれば、試験会場を設けて行なうケースもあります。

何れにしても、その前には講習があり、その後試験、そして合格というお決まりの流れがあります。初級、中級、上級などに分かれていて、それぞれに講習も試験も必要。取得したその資格は1年ごとに更新しなければならない。有資格者になることによって、その社団法人が使用しているロゴなどを使用できるなどの規約があります。

で、この活動を受講、受験、発行、更新するたびにお金がかかるということです。
そして、そうして得た資格は”その一般社団法人でしか意味のない資格でしかない”ということです。しかも、その内容については、個々に制定し、全国的に統一された内容ではありませんので、果たして意味の有るものなのかなと大きな疑問を持っています。

葬儀業界にも”葬祭ディレクター”というものがあります。これも、労働省の技能審査認定規程(昭和48年労働省告示第54号に基づく制度)における技能審査であって、技能検定(生活に密着する製造業、建築関係に多い資格)ではありません。決して国家資格ではありませんが、全国的に統一した内容で年一回行われていますので、個々の葬儀社が独自に制定したものではありません。

終わりを考える活動なら、感謝も必要だと思う

無念という言葉は、私たちの世界観では残念という表現に使われますが、仏語では、無我の境地の意味もあります。

どのような死を迎えるにしても、その方々には、家族や自分の死後の事など、様々な案ずる事があり、それを悔いていく事は無念になってしまうのではと思うのです。

それを無我の境地である無念へ昇華させるには、残された者ががきちんと葬送儀礼を行い、供養を行う事で可能になるのではと、自分の死にかけた経験と葬儀の現場での経験を併せて思う次第です。

終活事業者の一部は葬儀社が絡んでいます。構成する理事や役員の中に葬儀関係者を含まず、独自に終活資格者を生み出す法人団体も、その活動実態を見ると、どこかで葬儀社と懇意にしています。

終活講習やセミナーの開催のために葬儀社からオファーが来ることもあるでしょうし、自らが葬儀社に売り込んでいるかもしれない。お互いに利害関係が存在するからこそ付き合いもあるのでしょう。事業継続の観点から見ればそれがいけない事とは言いませんが、やはり背景に”施行誘致”の思惑がうごめいているようにしか私は感じません。

そんな事業の流れが新たな無意味な価値観を生み出し、直葬という言葉を生み出したように、それが当たり前になってしまうと、故人を、先祖を敬うなんて供養も簡素化していくのでしょうね。

そうならないよう、消費者の皆さんも、厳しい目でその活動趣旨を見て、利用するべきだと思うのです。そうしないと、知らないうちに、終活事業者の”無料業務委託者”になって、その事業の利益のために自分の死を利用される事になりますから。お気をつけあそばせ。

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