全仏と神社本庁の違い、氏神さんも裕福ではないけど、みんれび問題は起きない理由

厳島神社の鳥居
厳島神社の鳥居

みんれびで問題になった、お寺さん紹介サービス。ポケモン並みにスマホで簡単に感じてしまう存在では、お釈迦様の偉大さは伝わらない。これを全仏は真摯に受け止めるべきだし、問題解決には神社本庁を見習えばいいと思う。

「みんれび神主さん便」登場か?

Amazonお寺さん問題で何かと話題になる全仏・仏教界ですが、ふと、「そういえば、地元の神社って賑わっている訳でもないのに、みんれびのような問題は出ないよネェ〜」と、それに、「神主さん便」なんてのも聞いた事もないなと考えていたのです。それと、もし神主さん便があったとしても、3万5千円でも妙に納得する感じもして、なぜだろうと思ったのです。

元々、サイト上でお寺さんを紹介するサービスは、富める寺院とは違う、維持管理に苦慮するお寺さんが登録して収入を補うとの背景があります。ところが全仏は、寺院運営に苦慮する背景には触れることもなく、お布施が定額制になる事はけしからんとのご意見を発信していました。この自分たちの立場を守ろう的なスタンスが世間に飛び火したと私は感じています。

何度かこの記事を書いておりますが、本山や全仏が、そういった地方の寺院(歴史的文化遺産)の維持運営を、このようなサービスが世間の目に触れだした頃にでも真摯に考えていれば、もっと違うコメントが出ていただろうと思うし、登録するお寺さんも、これに協力する事について、仏教界の将来を見据えて互いに話し合える環境にあったと思うのです。

確かに、各お寺さんは独立した宗教法人であって、個々の運営に関して本山が口を挟む事はありません。それぞれが責任を持って運営を行います。儲けていようがなかろうが、本山への シノギ 上納だけを怠らなければ文句を言われる筋合いはありません。ただ、浄財を奉納されて、本山運営に尽力されている方が困っている時に助けないのはちょっとねと感じます。

氏神さんも大変なんですよ

巷にある産土神として存在する神社は、日常でそれほどお参りがあるとは思えない。時には、神主さんがいないところなんかもあるし、日本全国の神社庁から加盟する神社へ人員(神主)の配置、いわゆる人事権などはあるのかが疑問だったので聞いてみたら、各神社も独立した宗教法人として個々に運営責任を持つので一切関わらないとの事。

そんなひっそりと佇む神社を維持運営するためには、何を行っているんだろうと不思議で仕方がなかったのです。日々、賽銭箱に入れられる浄財はそんなに期待できるほどでもないと考えられるし、お守りとかも飛ぶように売れている訳でもない。ご祈祷もやっているのを見かける事もほとんどない。地鎮祭などには行かれているとは思うけど、毎日あるとは思えない。

お葬式でも、神道形式は少なく、また仏教に比べて、言い方は悪いですが、仏教でのお布施に代わる玉串料は安いと感じます。これとて、金額はお気持ちの範疇に入るのですが、個人的な主観としては、あまり抵抗感も感じないのが不思議に思える。ま、件数も少なければ、お礼も少ない。なので、これが神社を維持運営するための主たる部分では無いと思えるのです。

有名な神社などでは、初詣だけでもかなりのお賽銭収入はあるだろうし、日々の参詣者も多い。結婚式なんかも意外に人気がある事も聞くし、人が集まるので何かと物は動く。平日でも巫女さんもそこそこいて、おみくじやお守りなどを販売しているし、祈祷の受付もこの方々がやってくださる。これらの人件費も賄えているという事です。

なのにどうして維持しているの

今回の肝ですが、この疑問を神社庁にぶつけてみましたところ、兼業者もいるし、駐車場なども経営してたりと寺院と変わらない答え、ただ一つ気になったのが、「篤信の方からの寄進も、このご時世ながら意外とございますので」との言葉を聞いて、なるほどなと感じたのです。

神社の御祭神はそれぞれ違うので私たちは、あっち、こっちへお参りに行きます。受験などの場合、菅原神宮へお参りに行ったり、商売繁盛を願って稲荷神社や荒神さんへお参りに行ったりします。縁結びで有名なところだと女性のお参りも増えます。夫婦椿が有名な出雲の八重垣神社が資生堂花椿のルーツだよと聞けば、遠くても出雲大社参詣と併せてお参りします。

でも、「村の鎮守さま」と呼ぶ、氏神様のところにも、そんな出雲の神様や天満宮であったり、稲荷神社も鎮座しているので、遠くまで出かけなくともお参りの目的は果たす事ができます。”本店”は京都や島根、伊勢にあるけど、”支店”で十分役目を担う事ができるし、ご利益も変わらない。もっと寛大に考えると、地元の神さんから出雲の神さんにお願いする事もできる。

商売を始めた頃から、氏神様のところにある稲荷神社に欠かさずお参りを続けてきた。そのお陰で、これまで立派に成長する事ができた。時には、京都伏見の”本店”にも本格的にお参りすることもある。お陰様の気持ちを、”本店”の神様にお返しをする事もあるし、そのご縁をいただいた氏神様にも寄進をしたい。なぜか神さんにはこのような気持ちが存在するのです。

神さんと仏さん、生活の中での距離感の違いは大きい

祭りがあれば神輿を担ぎ、神社に集まる。初詣にも行きます。私の小さな頃は、毎月決まった日に氏神様のところに夜店が出ていました。いわば、生活の中心に神社があったので、当たり前の存在として気軽に立ち寄れる場所でもありながら、お陰様の気持ちを持てる場所でもあるのです。このように多くのニーズに応える事ができる柔軟性がある。

全国の寺院が全てとは申しませんが、少なくとも大阪にある四天王寺さん以外は夜間に空いているところは少ないと思います。敷地内に入れません。神社は24時間オープンで、いつでもお参りに行けます。物騒だし、警備上、お寺が夜間は閉じていても当たり前です!というご意見も伺ったこともありますが、これは古くからの習慣で最近に始まった訳でもありません。

この違いが、宗教と生活の距離感の違いではないかと感じるのです。つまり、有名であろうがなかろうが、また大きさの違いはあれど、皆で支える鎮守さまはいつも側に存在しているのではないかと。感謝と祈念の場であって、日々の生活は自然の成り行きによって左右される。その自然のエネルギーの中心にある神様は、恐れ多い存在でもあるのです。

だからこそ、人間の力だけではどうにもならない時、神に祈り、頼みごとをするのかもしれません。結果が願ったようにはならず、意にそぐわなくとも、それは神さんから示される教えであり、そんな人間が自然と共に生きる事は、神ながらの生活を大切にするという事。足る事を知り、協調しながら生活を送る中心であるからこそ、大切にしてきたのかもしれません。

無理やりですもん

仏教の場合、菩提寺と檀家の関係性は江戸時代の寺請制度から始まった歴史があるので、ある意味、かなり強制的にどこかのお寺に属するようになりました。もともと信仰を持つ人と、檀家になって初めて関わりを持った方のように、ご本尊様やその教えに対してのスタンスに違いがあるし、同じ村でも時代により信仰対象が変わるという、神様にはない世界観があります。

また、信仰心の厚い方以外は、生き方を求める教えというよりも供養のイメージも強いところが違いかもしれません。生きる事は神さんへ、亡くなってからは仏さんにと、古い家では当たり前にあった神棚と仏壇は、それぞれ目的が違う。朝夕に神さんに感謝をし、仏壇でご先祖様を供養する。このような住み分けが生活にあったのです。

でも、神さんに対して日々の祈りと感謝を自然と行ってきた私たちは、”おらが村の鎮守さま”を大切にするように、”おらが村のお寺さま”も、同様の感覚で守ってきました。神主さんも院主さんも同じ人間であり、村の人だから。いわば、共同体として生活する中に守るべき存在が増えた訳です。

ところが、このお寺さまは日々、参詣する先ではなく、お葬式が起きたら相談に行くところ。お盆にお参りに来てもらうところ。先祖代々のお墓なんかもあったりするケースもあるので、日々の生活で感じる感謝の念は、ご先祖さまのお陰(偉大さ)によっては、神さんへの寄進と違い抵抗感が出る。発心の始まり、対象物へのスタンスと距離感が違うと感じるのです。

教えの距離感

仏教が伝来された事によって、神道という名前を与えられた訳ですが、このような宗教的な位置付けは、本来の生活の中には存在しなかった。古く、何百年も生き続けている大木には神様が宿り、大きな岩でも、小さな岩でも、そこには神様が存在する。太陽を見て神様を感じ、水の流れを見て神様を感じる。全ての生活の中に、神様は存在する。

なので、神道と言われても、神社を管理する神主さんが同じ人間であっても、崇敬する先は大きなエネルギーが対象なので、逆に人間の小さな気持ちや感情で左右されるようなものではない。それぐらいの畏怖を感じるからこそ、供える、寄進する行為に関して抵抗感がないのかもしれない。

仏教でそのようなイメージを抱くとすれば、修験道か、天台・真言密教と言えるかもしれません。荒々しくも自然の中で神仏を感じ、修行を積む。護摩を焚き、一心不乱に衆生の平和と繁栄を願う姿や、その道を極めようとする行者さんには、ちょっと近寄りがたい雰囲気を感じるところが神さんのイメージと重なるのかもしれません。

逆に優しく法を説く事は、多くの方を救ってもきました。南無阿弥陀仏と唱える事により阿弥陀様は救ってくださる。確かにありがたいと感じます。ただ、それは仏道への入り口であり、その先にある大きなエネルギーを感じない事にはダメではないかと思うのです。仏教という、仏の教えなのか、仏道の教えなのか、その教学を論じているだけでは側には感じないのです。

もう、お父ちゃんの小遣い減るやろ

歴史の流れの中では、政治にも関与し、国の行く末にも大きな影響を与えてきた仏教ですが、身近にありながも畏怖を感じない存在感がお布施への抵抗感につながっているのではないでしょうか。宗門に生きる方は、そのエネルギーの尊さ、偉大さを肌で感じているからこそ、真の道、己の進むべき道として歩んでいらっしゃる。その教えを維持するために全てを注ぎ込む。

だから、みんれびなどに登録してもとの気持ちに通じるのでしょうが、それ以前に仏様のエネルギーと存在感を、衆生に感じさせてもらわないと、どこか人間くさい問題に感じてしまう。1+1が2にならないからと行動される動機は正論でしょうが、どうも、お小遣い不足に困るお父さんみたいに感じてしまうし、全仏のコメントはそれに対する言い訳のように思う。

雄大なエネルギーの存在を感じさせないような、お寺さんの俗的な部分であったり、観光名所的な存在感だけでは、寄進する気持ちには抵抗感が生まれます。宗門に近い方、その教えに救われた方にとっては、身近な存在であって、喜んで寄進させていただく気持ちになっても、お葬式でしか感じないものでは、そこまでのありがたい気持ちには中々なれない。

衆生と仏様を結びつけるこのマッチングがどうもうまく機能していないのではないでしょうか。神主さんも院主さんも同じ人間なのですが、アプローチが違うと感じるのです。それを日々、苦慮されているとは思いますし、奇特な行動によって教えに触れていただこう、阿弥陀様を感じていただこうとされているのも知っていますが、何かが違う、それは組織かも。

組織はシンプルにしましょうね

みんれび問題での全仏のメッセージを受けて消費者が感じた部分は、非常に俗的な、人間的な言葉として受け取られたのではないかと感じます。利用する方は、神仏の存在を感じている方もいるし、形式上、必要かなと考える人もいる。でも、共に大きなエネルギーに対して寄進(お布施)する行為に何か距離感を感じている。その真意に対して全仏は応えていない。

だから、お気持ちでどうぞという布施の意味が伝わらない。いくら、法施とは仏道のなんたらなんて説明しても、その言葉から、その姿から、私たち人間では計り知れないほどの存在感を感じさせない事には、ではそうしましょうかという気持ちにはなれないという事です。神様に対して抱く存在感のようなものを、日々の活動で感じさせてくれないとダメじゃないかな。

神社本庁は、各都道府県に神社庁を設けています。この組織が中心となって、登録している神社同士が協力しあって問題解決に取り組んでいるそうです。全仏と同じく維持運営に関する問題が一番の課題かもしれませんが、互いに協力し、相談する機関として機能しているのです。文化遺産保護の観点から、宗教法人に対する指導、監視の機能も監査的な立場で存在します。

真言宗やら、曹洞宗やら、浄土真宗など、様々な宗派が登録している全仏と違い、ここに登録する団体が全て八百万の神々、即ち、「神さん」でまとまっている点です。宗派の違いがないのです。なので、何か行動を起こすにしても、いちいちハシゴをかけたり、外したりする必要がないのです。話が早いのです。

ポケモン並みになった仏様では畏怖を感じない

みんれびなどのお寺さん紹介問題に関しては、登録する方の事情、それを利用する方の事情、事業者の個人的事情が絡まって複雑になっていますが、私は、これをネットでやってしまったのが大きな間違いだと感じています。畏怖を感じるほどの大きな存在、エネルギーを、スマホの世界に落としたのは間違いですし、それを許した全仏・仏教界のミスだと思います。

多くの方がお寺さんと普段お付き合いがないのは、生活の中に在る神社と寺院の存在感の違いかもしれませんが、これは歴史上の長い年月の間に修正をかけるべきでした。現在も、身近に感じていただこうと孤軍奮闘して取り組んでいる方もいますが、いくらSNSが普及して簡単に様々な情報を発信する事ができても、そこじゃないと感じるのです。

それを団体として布教に努めよう、仏様を身近に感じていただこうと全仏が存在するのでしょうが、全仏自体が、宗派を超える世界観を持たないと機能しないのではないかと思います。各宗派のトップでの意見と仏教界全体の意見が違うため、どうしても折り合いのつくところで、チャンチャンとなってしまわないかという事です。これでは衆生に届かない。

人間の価値観や都合という物差しを捨てて、お釈迦様=全仏との思いを持てない限り、この先、どこまでも仏教は衆生から離れていくのではないでしょうか。信仰心を持たないと言われる若い世代の方でも、自分の窮地には大きなエネルギーに祈願をし、身近な者のためには平和を祈る事ができるのです。

お寺さんには行かず、神社へは祈りを捧げる。

この違いを、お寺さん一人、一人が肌で感じない事には、お寺さん紹介サービスにおける問題の本質は見えないと、氏神さんとみんれび問題を考えていて痛切に感じた三日坊主でした。

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