”Facebookの話題より”私は葬儀の司会者です! なんて自称する方への苦言

手で顔を塞ぎ悩む子供
手で顔を塞ぎ悩む子供

のっけから失礼承知の話です。実際に私も、その司会者としてやってきた経緯もあります。そう思った時期もあります。でも、葬儀では司会者ではないんです。そう感じた時から、これまで何度も、葬儀において司会者なんていないと言い切ってきました。

現在の葬儀式の捉え方

葬儀は葬送儀礼の場です。諸説ありますが、あえて言えば葬儀式・告別式として構成されます。葬儀式は遺族や親族が寄り添い、宗教・宗派の式次第に則って行われる部分です。告別式は故人と親しかった方のお別れの場です。なので厳密に言えば、告別式は宗教儀礼がなくとも成立するものです。

宗派によって教義が違うので、極端に平たく申し上げて失礼ですが、葬儀式は、天上・浄土など、仏様のいらっしゃる世界観を様々な道具を用いて表現した場にご本尊を勧請し、慈悲の光に包まれる中、死した事を諭し、これからの修行を良きものと願い、ご本尊へその加護を託し、衆生の思いを供養とし願う場であるがゆえに行われる儀礼です。

その儀式が行われる自宅・集会所・葬儀会館の飾り付けは、寺院の本堂の世界観を模したものです。そして、その場所で宗教的な儀礼に必要とする時間進行と、一般の告別式に必要な時間が重なり、趣を異にする儀式が同時に行われているだけです。

時間的に見ると、宗教儀礼に必要な時間として約30分〜40分、時には1時間以上を要する葬儀式が終了した後、導師が退座するまでが葬儀式。その後、時間制限はない告別式が厳かに始まり、故人とのお別れを偲ぶ会として行われるものです。それを便宜上、葬儀式の時間を利用して告別式を重ねて行っているというだけです。

また、宗派によっては、これらの法義を通夜から葬儀式にかけて一連の流れとして行う事もあります。だから、通夜は絶対に必要で、参列者(遺族・親族を含む)がいようがいまいが、行う意義は別のところにあります。なので、全てはセレモニーとしてのイベント的な儀式ではないという事です。

じゃ、社葬は?

社葬などでは、葬儀式として遺族・法人が主であり、告別式として参列者・取引先が存在します。前者は宗教的な儀式、後者は社会的な儀式であるという事です。式の時間も十分とりますので葬儀式が終われば退座してもおかしくない訳です。ところが、宗教的な儀式が済んでも社会的な儀式が終了するまで、導師などは読経を続け同席しています。

密葬として先に荼毘に付した場合、厳密な意味では葬儀式としての宗教儀礼は終了しているので、この場での読経の意味合いとしては供養的な要素が濃い。なので、遺族・法人・参列者(取引先)皆さんで、時間をかけて故人を忍び、供養しましょうという趣です。

事前に荼毘に伏せず、出棺を伴う社葬の場合は、葬儀式は終了したが、引き続き供養としての法要を営んでいると捉え、読経を続けてくださるお寺様のお考えがあるとみます。

あるお寺様に言われた事ですが、その方に「仏さんが納得(理解)するまで読経しているからな」と言われた事がありました。それが供養だともおっしゃってました。その観点から見て、供養としての告別式を皆さんと共に行いましょうというのが正解だと思います。

これは、葬儀・告別式として行なっている個人の葬儀でも同じ事です。それらを社葬の場合は、時間的な余裕もあることから葬儀式・告別式として分けて行なっているのであって、葬儀式終了後、導師が退座し、告別式に改めて入場されるのも、儀式の趣旨が違うとの認識があるからです。

神式や他の宗派は違うやんけとおっしゃる貴方

元々、仏教も葬儀のために存在しているわけではありません。時代により、極楽往生を願うブームが起きたりしましたが、人がどう生きるべきかを悟る道であり、どう死ぬかではないはずです。しかしこれは、ある意味では繋がる事ですし、大局に立ってみれば、そこに仏教としての本義があるとも私は捉えています。

神道においては死は汚れと捉える部分もあり、古くは神式の葬儀なんてのは行われるようなものではありませんでした。また、仏教の伝来以降、神道・仏教、双方のその存在が国をも動かすポイントでもあり、時代によりどちらが主であるかを繰り返してきた歴史も踏まえると、葬儀として形式が先に整ったのは仏教の方に軍杯が上がると見ます

最近でこそ一般的に「神式の葬儀」なんて認識をしますが、このやり方にしても、仏式の形式を模したところもかなりあります。教派神道にしても、宗教法人として認められるまで一時期、神社庁に属していたりしていますから、仏式の葬儀を模した神式の葬儀を、さらに模した形式が色濃く残っているところも見受けられます。

特に教派神道においては、祭政一致も含む、幕末から明治にかけて時代の移り変わりなど、様々な要因を含みながら派生してきた歴史もありますから、葬儀の形式においても各宗派とも仏教・神道の影響を受けながらも、個々に存在する教義の根底の部分も加味され、独特な世界観とともに独自のスタイルを持っています。

ただ、厳密に言えば、葬儀 ≒ 仏教というのもこれまたおかしいのです。日本における葬儀の原型は民族的な風習が本来はベースにあり、そこへ様々な宗教観が乗っかってきたという方が正しいかも知れません。

大変長くなりましたが、結論です

歴史的な背景や様々な思惑にも翻弄され、現在に至った葬儀の形で申し上げれば、葬儀式・告別式として行われる「葬儀」は、宗教的儀礼を主とする葬儀式がメインであり、古く葬儀組などで行われてきた風習とが交わり、各地に根付いてきたものです。

その中で、告別式の行事として参列者が、宗教的な儀礼時間に足を踏み入れる事を許されるのは供養するための行為だと私は考えています。なので、ご本尊の元、読経と共に香や花を手向けるその功徳を持って、故人の御霊の行く末を案じるがゆえの行為だからこそ、同時進行が許されるものと思います。

その宗教的な儀礼が主であるとすれば、あくまでも葬儀における司会者は進行を見守る係、儀式をサポートする係であり、それ以上でも、それ以下でもないというのが私の考えです。だから、葬儀においては司会者ではないのです。不要な言葉の羅列や、その空間に割り込むのは、宗教儀礼の観点からすれば大変失礼な事だと思うのです。

葬儀社が演出として司会者を売る行為に乗せられ、自らを「葬儀の司会者です」と名乗る方は、この葬送儀礼をどのようにお考えでしょうか。慢心や傲慢という気持ちはなくとも、最初の一歩が違えば最終的な目的地は大きくずれてしまいます。自身の立ち位置を見直す事が一番のサービスではないでしょうか。

このちょっとした価値観のズレが、自らのブログで担当した葬儀の話をネタにしたり、挙句、個人情報までもが特定されるような内容のものを公にできるのではないかと、最近目にしたFacebookでの話題から感じ、この記事を書きました。

何度も言いますが、葬儀では司会者なんて存在はありえません。
それは、あなたの勘違いです。

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コメント

  1. ある司会者 より:

    「司会者みたいなもの(らしきもの)」或いは「司会者みたいなもの(そんなものはと言う否定)」のどちらにも属すると思います。私は30数年に渡り、芸能司会者として生きて来ました。勿論、名も無い者ですすが、私の分野から葬儀、婚礼専門の司会者さんを司会者と言えるかどうか疑問であります。司会ではなく「呼び出し」かと。。。しかし、月々の収入も、それなりに。呼び出しの名前が違うだけであり、全く同じセリフの繰り返しかと。かと言って、それが無いと進行出来ないわけで、「葬儀」と言う儀式ですからね。投稿者さんにとって葬儀ではどんな司会をするのが理想でしょうか。

    • 三日坊主 より:

      コメントありがとうございます。

      私もマイクを使って、葬儀のいわゆる司会者(私は進行係と認識していますが)としてやってはきました。でも、その中で「葬儀は司会者じゃないな」と思ったのです。

      マイクを使うのは遠くへ声を届けるだけの道具であり、エコーなんかも必要ないし、必要以上の音量も不要と思っています。
      遠く離れていてもその方に声を届ける。これは、今、進行がこうなってますよ。次は皆さんの焼香ですよ。的な事です。

      通常、私たちが人と話をする場合、近くの方にはそれなりのボリュームで話します。このためには確かな「耳」、いわゆる聴力が必要で、不具合があれば声量をコントロールしにくいのです。逆に遠くにいる方に声をかけようと思ったら、自然と「そこまで届く大きな声」を出すはずです。ボールを投げるのと同じで近くの人に全力投球はしないでしょうし、遠くに投げようと思ったら自然と力をコントロールしている。そんな自然体が一番大切と思っています。

      葬儀においては、これをマイクを通じても同じことする事が大切ですよと言ってきました。声を張り上げなくても遠くの方に聞こえるのがマイクの長所で、それ以上も、それ以下もありません。また、歌手ではないのですから感情移入なんて全く不要です。そういう意味ではナレーションなんてどうでもいいのです。

      そして一番大切にしてきたのは「音の並び」と「言霊」です。言葉には力があります。ざわざわしている開式前の式場でもひと言発せばそこは神聖な空気に包まれる空間に変える力があります。私にとっての司会者としての意味はここしかありません。「何をしに集まっているんですか。さあ、始まりますよ」と、皆さんの気持ちを神様、仏様の世界に誘うだけです。そのきっかけにしか過ぎません。あとは、宗教者の役目です。

      そして音の並びはノイズレスという意識です。変な抑揚・変わった言葉使い・感情移入・言葉の詰まり、これらは全く必要なく、主語述語を置き換えたとしても、その方が聞こえが耳障りでないのなら私はそうしてきました。進行係といってもノイズが多く気になって仕方がない、ギクシャクする、これも儀式には不要な事です。

      そして、マイクは極力使わなくとも可能なのが葬儀だと考えています。サポートする葬儀社スタッフが喪主のそばに行き「どうぞ、ご焼香ください」といえば済むだけで、遺族・親族も同様です。これまで代表焼香なんてのがあるから名前を呼ばないといけない訳で、だからマイクなんでしょう。家族葬が増えた今ではマイクを使う事の方が違和感と言いますか、仰々しさを覚えるのはそこだと思います。

      黒子として式場全体を見渡し、参列者に不具合はないか、困っている方はいないか、時間はうまく進んでいるか、霊柩車やバスは到着しているか、そして、万一のトラブルを常に想定し、その場合はどうするかの対処法を考えているだけでした。
      これが葬儀の司会者(進行係)だと私は思っています。

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