”臨床宗教師”から学ぶ、死への対応の尊さと終活の在り方

ベンチに腰掛け、遠くを見つめる老夫婦
ベンチに腰掛け、遠くを見つめる老夫婦

死の恐怖や死生観の悩みを抱える被災者や患者に寄り添って、心のケアに当たる臨床宗教者。本来の死への対応とは何かを考えるきっかけが、今年、大きく成長し成就するかを見守りたい。

臨床宗教師の存在

1996年阪神淡路大震災が発生した際に、神戸赤十字病院に被災者の心のケアを目的として心療内科が設立されました。2004年新潟県中越地震、2011年の東日本大震災、またその他の災害などの際にも、被災者や救助活動者へのケアの重要性が認知されてきました。

特に2011年の東日本大震災の際、宗教・宗派の垣根を超えて多くの宗教者が被災地へ赴き、被災者の心のケアに尽力されました。

これがきっかけとなり、看取り先生として著名な、故岡部健(おかべ・たけし)医師が、死を迎える方への心のケアを専門とするために、心理療法士や心療内科医だけではなく、宗教家の必要性を訴えてチャプレンのような活動を行う、公共的立場の宗教家「臨床宗教師」を養成する講座を東北大に開講しました。

臨終宗教師とは、宗教宗派の垣根を超えた活動であり、特定の宗教における布教活動を行い心のケアをするのではなく、死への恐怖や死生観の悩みに対応できる専門家として公共機関に出入りし、チーム医療の一員として活動を行います。

その後、龍谷大などで養成講座が行われて、現在、高野山大・種智院大・武蔵野大・上智大・鶴見大・愛知学院大が開講しており、今年にはそれら各大学が個別に養成してきた臨床宗教師に統一した資格を与え、社会的信頼の向上を目指すために「日本臨床宗教師会」を設立して、研修・検証や倫理綱領も定めて活動されます。

岡部 健医師・看取り先生の思い

医師は患者が変調すればどうしても対応してしまうため、特に体の水分が少なくなった時に受ける点滴は、患者にとっては大変苦痛になるそうで、そのまま亡くなると体の状態は溺死のようになり、相当の苦しさがあるそうです。

また、治療については質問できますが、「死んだらどうなるんでしょう」なんて質問には医師は答えない。むしろ否定的な答えしか返ってこない。医師が良かれと治療を行っても、全てが患者にとって最良とはなり得ない。花が枯れるように、人も枯れて朽ち落ちるように死ぬのが一番楽な死に方と、岡部医師は著書「看取り先生の遺言」でおっしゃってました。

そのためには、患者だけでなく親族にも信頼と共感を得ないとそれは実現できない。医師を信頼し、その助言を疑う事なく実践できないと看取りはできないそうです。そして、その実現のために宗教者の必要性を訴えかけ、その宗教者にも一定のスキルが必要と講座が始まり、養成する機会を設けられました。

死を迎える方と家族が一緒になって取り組むのが、本来の意味での終活

だと、改めて思った次第です。

巷に溢れる終活事業者は、死を迎える本人を対象として、その方の持つ資産を対象に士業がぶら下がっています。最終的には葬儀社が出張ってくるのですが、誘致の言葉として平気で使うけど、このどれもが「ケア」なんて存在しない行動です。

金儲けを終活と勘違いしている輩も多いので、皆さまの活動を見習い、自らが宗教に触れ、教えを乞い、学ぶべきです。それができないなら、ここのところ旬もすぎたようですし、そろそろご自身の社団法人の終活を考えた方がいいかもしれない。

もう一つ、この終活を成就させるには宗教界の寛容な協力がなければ達成できないとも感じます。ある宗派では臨終から引導、その後の法要・法会とつながる一番の肝のところに他宗派の方が存在し、介入すると解釈する方もいるでしょうしね。

葬儀のためだけにお寺さんは存在している訳ではないけど、御本尊とのご仏縁のきっかけをくださり、方便をご自身の言葉で伝えてくださるのが本来の立場、存在意義だと思うのですが、ここに縄張り争いが入るとケアなんて言ってられない。

そんな事を理解してくださるか否かで、この活動が世間に受け入れられ、大きく成長するかが変わると思います。

志をお持ちのお寺様も、他の宗教者の方もたくさんいらっしゃるのですが、本家本元(山)の価値観が変わらないとダメなのは、葬儀業界も同じですけどね。

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