生きる事、死ぬ事に対してプロを目指せば僧侶紹介サービスなんて無くなると思う

夕焼けの海の家族
夕焼けの海の家族

葬儀において僧侶を紹介する行為は古くからあったし、現在でも存在している。葬儀屋の価値観を真似て、サイト上でも紹介してリベートを得る。これを批判するのは簡単だけど、これが生まれ出た背景には、多くの方の無関心が一番大きな原因だと思うけどなぁ…

アルアルか? ナイアルか? でも、事実なんで

以前、お寺さんの紹介料についての記事で様々なご意見がありました。

お寺さんの紹介料について思う事
お寺さんを紹介してリベートを得る。個人でこっそりやっていたヤツもいたし、会社が堂々と「別収入」と認め、いざ問題が起きると、そのリベートがなければ成り立たない仕組みを強要しながら関わっていない立場ですよなんて言う。なんじゃそらの世界の話です。

全てのお寺さんがそのように感じられてしまうのではないかと。また、地域によっての違いと書いても、どこが該当する地域なのかも特定できないので、結果、読み手の皆さんの身の回りには存在しないからそうではないとの声もありました。でも、記事は事実です。

確かに全体の割合で言うと数%程度の存在でしかないので、見えないのも事実です。まして、「今回は紹介でご縁をいただきましてありがとうござました。お宅さんから頂いたお布施の半分は葬儀屋さんに支払いますので」ともお寺さんは喪家には言わない。

良心的な紹介に努める葬儀屋さんもあります。でも、紹介してキックバックを受けるシステムを導入している葬儀屋は相当数あると思います。担当者が独自に、懇意にしているお寺さんとやり取りしているケースも含めると、事実は見てきましたけど実態は見えないのです。

そして、私に文才がないのも混乱する原因なんで申し訳ないのですが、私にしても、全てがこのようなお寺さんみたいに取られる事も心外だし、本当に尊敬するお寺様にも数多く出会ってきました。

ホンマもんのお寺様
いいお寺様 私が出会ったお寺様の中で、特に印象に残っている方がありまして、今日はそのお話しをしょうと思います。 そのお寺様は、顔立ち...

一般の方は、正当な宗派に対しての意識が低い

宗教者の紹介を求めるニーズの中には、あまり関心もないし、また、普段の生活の中で宗教(仏教)と触れ合う事も少なかったけど、最後ぐらいはと考える方。仏教や宗教というものは大切だと思うけど、これまで縁がなかった。現在の菩提寺との関係がうまくいっていない。などが考えられます。

葬式=お寺様ではないのですが、多くの方は、死を迎えて初めて自分の宗教・宗派について考えてみたりします。核家族が増えたのも大きな要因で、家に仏壇や神棚がない。特に仏壇に関しては、その家に新仏さんが生まれない限り縁がないとも言えます。

本来は、新仏さんが無くとも、仏壇を祀って何ら問題はないのですが、どうも死んでからしか設置してはいけない雰囲気もあります。ご本尊様に毎日手を合わす事ができる神聖な場所ができるのですから、小さな寺院が家の中にあるように考えても不自然でないと思うのです。(仏壇屋さんや宗教界が協力して、若い世代に受ける意識改革キャンペーンが必要では…)

昔の電話のように、玄関近くに置いている電話機に行かないと電話をかけれない。仏壇も同じで、そこへ座って手を合わす行為を取る事で、初めて自分と会話できるのではないかと私は考えています。そう、諸外国で、毎週末、教会に行くのと同じように。

身内はそこそこ、部外者は三日ほどかな

葬儀の現場では、死を迎えた方、その方の死に関係する方が出入りしますし、死を送り出す事を前提に全てが動いています。だから、普段、人が死ぬ事や宗教という事に関心がない方でも、いつもとは違う心構えになります。そこに居るから、亡くなった方を思ったり、自分に置き換えて、死を身近に考えてみたりできるのではないかと感じます。

仏式で話しますが、葬儀が終わって、四十九日や一周忌(三回忌)ぐらいまではお寺様が出入りもしますので、その都度、宗教観や死の現実感に触れる事はできるのですが、それも、新仏を祀っているお家だけ。親族も、四十九日が過ぎて、納骨が済んでしまった場合、それ以降は徐々に死の現実からは意識が薄れていきます。

やがて、自分の生活の忙しさに紛れて、あの時、あんなに悔い改めようと思ったのに、手を合わす場所がないからどんどんと現実感が薄れていく、そんな時、ふとネットや新聞などで見かけたお寺さん紹介の問題や、終活、葬儀に関する言葉やニュースを見て、近々か、数年前かに経験した、一度か二度の葬儀の経験だけで良いとかダメだとかを批判する。

無関心が不要な仕組みや商品を生み出します

自分の心の拠り所を作る事がまず一歩ではないでしょうか。偶像崇拝ではないですが、なかなか私たちは形がないところに祈りを捧げる、自分を振り返るなんて機会は無いのでおざなりになってしまいます。

そういった意識を高める事で、わざわざエンディングノート講習会や、終活コーディネータにお金を払って講習を受けに行わなくとも終活は実践できると思うのです。死や宗教に関する意識が高まれば、自然と葬儀についても興味を持って考えるようになります。

葬儀屋がいっぱしに死について語るのは、「人は死ぬんだ」、「人って、こんな死に方をするんだ」という、超現実を毎日見ているからです。ここに宗教観が噛み合っていけばいいのですが、残念ながら、毎日当たり前のように朝が来ると、多くの者は思っています。

そう感じているから、葬儀屋も葬儀紹介業者も、お寺さんを紹介したりリベートを取ったりできると思うのです。ただ、そういった仕組みを利用しようとする消費者の方も、傍観者の立場でいる方も、その責任や問題を宗門側や葬儀屋だけに向けるべきではないと思います。

まず、自分を振り返ってからにしませんか

無関心が隙間を生み、その隙間を狙って言葉たくみに金儲けの手段にするのが、「お寺さんの紹介料について」の記事にあるような一部の葬儀屋と、それらと同じ価値観で葬儀や僧侶を紹介するネット業者です。直葬や終活なんて言葉もそんな隙間を狙った業者の商品名です。

葬儀組が存在していた時、葬儀は村総出でやっていましたし、皆さん葬儀屋並みのスキルと知識を持っていました。いわば、プロ級です。そんな人たちを相手にする葬儀屋は、結構神経を使ってました。原価もバレバレなんで、物を売るにも慎重でしたから。それを思えば、今はあまりにも容易い。

皆さんが、死を現実なもの、宗教が身近なものとして触れ合える生活環境を整えた上で、僧侶を紹介してリベート得る是非や行為を考えていただければ、問題の本質が見えてくるのではないでしょうか。

終活の第一歩は、手を合わせ、自分と語り合う事だと思います。無関心すぎる現代の価値観が、お寺さん便なんてものを生み出していると思いますので。

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