なぜ、火葬だけを選ぶのかを考える

一つだけ飛び出した洗濯バサミ
一つだけ飛び出した洗濯バサミ

葬儀社って悪いヤツなのか?

先日、ある葬儀相談員のサイトを見ていまして、ふっと、自分が今亡くなったとして、どのような葬儀をしてほしいかを考えてみたんですが、まず「してほしいか」と最初に頭に浮かぶ事がなんか変だなと感じまして考えてみるとこにしました。

この第三者頼りになってしまう思考を葬儀社に対してもですし、一般の皆さんにも思考をそこに留めよう、現状の業者を全て「悪」としてそれに「対峙」する方法論を指導し、片や一方では業者のコンサルを行う考えに問題アリかと思いまして。

このように業者と喪家側の中間に位置して利ざやを得る業者は、現状の葬儀に対する消費者の位置付けを「弱者」とし、業者を「悪」と定義する傾向があります。
その弱者を助けるために私が存在しているのだ。だから、一緒に相談しながらいい葬儀を行いましょう。というスタンスです。

見積もりを出さない葬儀社?

そもそも、葬儀紹介業社なり、葬儀コンサルタントを仕事としてされている方、また後発の葬儀社の方の多くに「見積もりも出さない業者がこんなにたくさんあるとはびっくりした」とかのコメントをよく見ます。だから「業界を改革」するため「安心の見積もり内容」を提示し「明瞭な料金」をお客様に提供するんだ。となっています。

私自身、全国津々浦々の葬儀社を見たわけではないので、そのような「不親切」な業者がいるのかわかりませんが、少なくともこれまで30年近く業界にいる中ではそのような業者に出会ったことはありません。

以前書いた記事に、まさしく昭和の初頭にされていた葬儀屋さんの社長(といっても当時は会社ではないので◯◯さんと業者名で呼ばれてましたが)が、お酒一本で葬儀を行った話をその葬儀社の二代目さんに聞いた話です。当時は「見積書」などは存在せず、口頭で打ち合わせを行い、最終的に「請求書」で喪家に請求をするスタンスでした。

葬儀の売り掛け?

この時代、このような地方では「売り掛け」が当たり前で、お金を払わずとも「つけ」が効く環境でした。お酒、調味料などの消耗品はもちろん、着物などでも売り掛けです。喫茶店も毎日行っても「つけといて」で終わります。

これらを盆前と正月前に精算をする訳ですが、この時、「値切り」が発生する訳です。
つけを頼んでいる方(債務者)は、毎日の帳簿をつけている訳でもないし、納品書なるものを受け取る訳でもない。

売り掛けを請求する側(債権者)は、帳簿に付けていても、都度、納品書を渡す訳もなく、ひょとすると請求する時に「多めにつけとけ」と、そのような行為をさりげなく行っているかもしれない。

両者とも、精算までの期間に対する「利子」的な多少の「おまけ」があることは許容しながらも、それに対して駆け引きが発生し、「端数」を切ったりする訳です。

請求側は、お金をもらいに行く時に端数を切らないと相手も納得しない事を分かっていますから、切られる分をあらかじめ上乗せしておく。そうする事によって、最終的にはおおよその売り掛け金額を回収できるという寸法です。

今でもこの「盆暮れに精算」という地区は存在し、地区内での商店は村人に対して基本的に「つけ」が前提で、それを嫌う方には「その都度精算する」というケースです。

葬儀を値切る

で、見積書を出さない葬儀社という事ですが、こんな時代に見積書を作成して出している訳がない。仮に喪家がその見積書を出さない葬儀屋さんに「盆暮れの売り掛け」をする商店だとすると、その商店は、当然葬儀社にも他の方にも納品書を出さない訳です。

そんな関係が成立しているところでは出さないでしょう。で、最終的に請求書は作成して精算を行う訳ですが、この時にも「値切り」が発生する訳ですから葬儀屋さんは端数を三桁・四桁切るのか四桁・五桁切るのかで喪家と攻防がある訳です。

売上が大きければ四桁・五桁切りますし、売上が少なければ「そんな無茶いわんといてえなぁ」となって三桁・四桁でチャンチャンとなるのです。結構アバウトな感じですが、これがお互いの生活とコミュニケーションを保つ方法だったんです。

時代背景もあります

で、そんな背景を語らず、一方的に見積書を出さない業者があると定義付けるのもいかがなものかなと感じる訳です。古き良き日本の時代にはこんな時が当たり前だったんですよ。(サザエさんで御用聞きと配達にくる三河屋さんみたいな時代背景の感じです)

その方の葬儀業界における経験は経歴を見る限り2年程です。紹介業者としての業務を2年ですから、歩き回っての2年とは違い多くの業者の実態を見たとは思いますが、その地域の「空気」と言いますか、時代背景まではネット上ではわかりかねないのではと思ってしまうのです。

これらの中間業者、新興葬儀社の代表者が一方的に「現在では考えられない」やり方に問題を定義し、その結果、これまでの葬儀社全てを「悪」とし、その悪の根源を訂正した、指摘した自分たちの業務は消費者の味方だ!というスタンスが「葬儀をどのようにしてほしいのか」と、どこか弱者的な発想になるのではないかと感じた次第です。

誰が葬儀を決めるか

「してほしい」という事は、自分以外の誰かに託さないといけないんですね。夫婦、親子などの関係があればその中の誰かが考えないといけない訳です。

もし、亡くなった時点でそういった関係がない場合、これは行政なりが葬儀を執行しなければならない。こうなれば内容については決まっていて考える余地もないが、周りに誰かがいるのなら「してほしい」内容について自分で決めるようになり、エンディングノートに内容を記載し、希望する葬儀を模索するわけです。

そうなると、余程の余裕のある方以外、親は子の「後の生活」を考えるでしょうから、自分の事はさておいてという方向へ考えが行くでしょうし、先ほどのように葬儀社が「悪」ならば、悪に沢山のお金を支払うぐらいなら、家族や子供達にお金を残そうと考えますよね。

ずっと言い続けていますが、お金をかけたからいい葬儀ができるとも言いませんが、金額の低い葬儀ではどうしてもできる事に限界があり「儀式」を大切にする事は無理です。
業者側にも問題はありますが、同一ブランドのランク分けが必要だと思うわけです。

お金が出ないから、世論の流れから致し方なく、また、自社で直葬はする気がなくてもどこかでやっている訳で、そこに流れるくらいならとの理由から火葬のみのプランを作って施行してもいいかと考える業界全体がおかしいと感じます。

もはや・・・

車に例えて申し訳ないですが、乗用車と軽自動車は価格は違えど同じ車です。販売価格は違っても、ハンドルは付いているし、もちろんブレーキもあります。当たり前ですね。

でも、これを葬儀に例えると、金額によってハンドルは外してみたり、タイヤを4本から2本にして、もう車と言えない物にかわっていきます。

火葬のみで葬儀っていいますが、現在において火葬はほぼ当たり前の事ですし、付いていて当然です。まして、火葬料金は喪家が支払うわけで、その手続きを代行するだけの事。そして納棺して火葬するまでの安置と火葬場まで行くための車(寝台車・霊柩車)が料金の主体であります。

これはこれまでの葬儀の一部分であり、車で言えばシャシーみたいな物でしょうか。
なければまず始まらない物です。その上に人が座るためのシートがあり、曲がるためにハンドルがある。エンジンはもちろん「車を走らせる」ために必要な物はグレードは違えど装備してます。

葬儀社のスタンス

じゃ、車を購入できない方はどうするんだ。と怒られそうですが、そういった環境にある方にも優しい葬儀社であって欲しいと願っているのです。

祭壇は小さくてもいいじゃないですか。お花全てが「生花」が無理なら、祭壇の横に樒を飾って、その樒も、下の方は全て造花を挿し、上だけ生の樒を挿した物でもいいじゃないですか。(これ、このスタイルで昔は結構使ってました)

儀式に必要ならば、価格に関わらずそれを用意できる儀式が根っこにある商品ラインナップの考え方が必要ではないかと感じる訳です。

海外の葬儀を見る機会もあり強く思いますが、葬儀はその国の文化でもあります。費用をかけない場合、儀式の内容をどんどん外していくのではなく、またそんな隙間を狙う商売ばかりを考えて既存の葬儀社を否定ばかりせず、正々堂々と葬儀社としてのポリシーを貫いて欲しいと思います。

「どんな葬儀をしてほしい」と考えさせる原因は葬儀業界あるのではないでしょうか。

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