直葬について思う事

ジャマイカのバス停
ジャマイカのバス停

葬送儀礼の使い方、間違ってないですか

直葬(ちょくそう・じきそう)=宗教的な儀式儀礼を行わずに火葬のみを行うお葬式のスタイルをいうのでしょうが、なぜ、このような言葉、形式が生まれたのか。その点を時代の流れと共に考えてみたいと思います。

私自身はこの「直葬」をバスや電車、果てはネットなどで大々的に「直葬9万円一式」と、業者が打ち出すことに大きな抵抗感を感じます。

様々な理由から現代において「直葬」と呼ばれるものを選ばれるのは、消費者側の選択肢としては「あり」と思っていますし、否定するつもりはありません。このようなお葬式を担当することは進んでさせていただきましたし、予算の相談にも、会社には申し訳ないですが「無理しない」をモットーに誠心誠意の対応を心がけたつもりです。

ですが、現在の状況を見る限り、儀礼や尊厳と言うものを業者自らが放り出し、「施行=金」になるなら何でも取ってこい的な考えが葬儀というものを自ら否定しているようにしか見えないのです。

ツケが回ってきた

逆にそれまで葬送儀礼をいい事に葬儀料金を釣り上げることしか頭に無かったのですから葬祭業界そのものがしっぺ返しを受けているのでしょう。

隙間を狙われた結果、全国的に低価格で受ける葬儀の比率が急激に上がり、反動で高額な葬儀を行う方達の施行費用を「同一商品の多種化・高級化」と「不要な商品の意義付け」で販売に勤しみ「少しばかり売上を上げさせていただいて」賄う結果、グロスの売上は維持している状態。

そこへ個人業者、ネット紹介業者たちのさらなる追い打ちとして「直葬」を正面に打ち出し、もうなんでもオッケー状態になり、大手までがその小さな業者に流れる施行を奪い取るために「死=金(ビジネス)」へと突入していると見えます。

ま、一部の心ある業者さんを除いて、昔から変わりませんがあまりにも「なんでもあり」状態に心を痛める小生であります。

葬祭業界における経営戦略としての「ひとつの手法・戦略」といえばかっこいいのですが、どうも個人業者の攻撃を受けて立つ葬儀社側さんは肯定・否定も含めて振り回されているようにしか見えないのです。

直送の背後にあるもの

この「直葬」というフレーズが現代に受ける社会的背景として、金銭的な理由、人間関係の希薄化などわからなくはないのですが、直葬以外に家族葬もしかり、古くからこれらのようにひっそりと行われるお葬式は存在していました。経済的理由や故人との関係の希薄さが要因として「関わる人がいない」お葬式は存在します。

一人ふるさとを飛び出した方。家族との生活を何らかの理由から放棄した方。おおよそ天涯孤独な人生を歩んできた方。など、様々な理由から家族、親族、知人との交流を失い、気がつけばその日、その日を暮らす方がいて、いつか病気になり入院をしてやがて死を迎える。そんな方が最後の時に寄り添う人もなく、ひっそりと火葬されるケース。

それが今でいう「直葬」として霊安室から直接(昔はまだまだ会館が少なかった時代ですので結構、霊安室で出棺まで預かってくれました)出棺したり、または、葬儀社の会館などで預かり、その後、出棺というケースです。業界的には「霊安出棺」と呼んでいました。

「家族葬」的なものも古くから存在し、身内はいるが付き合いは無い。会社関係の付き合いも同僚だけ。だから、集まっても20人くらいだから、家に帰らず、そのまま葬儀屋さんの式場でお葬式をさせて欲しいって感じが多かったです。

仕掛けはどこから

全葬連加盟、加盟外を含めた葬儀社や互助会系など業者にもよりますし一概に言えないケースもあると思いますが、全国的にみても関西、特に大阪での担当者の売上は高い傾向にありましたし、葬儀の新たなスタイルを発祥させるといいますか、新しいことをやってみる気質は強く「葬儀を創造する」スキルは高いと感じています。

関西圏で密葬を「家族葬」に置き換え、霊安出棺を「直葬」に置き換えたのは、会館を持たないブローカー的な個人業者が受注を得るために仕掛けた「隙間商品」と考えています。

これら業者は、火葬場に併設された式場を借りて葬儀施行を行います。火葬場の式場が取れない場合で急ぎの時は、葬儀社に勤めていた頃の伝でお寺そのものを使うのでは無く、併設の式場を利用します。

当初は、つたない技術でネット上でのホームページを作り、見栄えが悪い分「商品単価の低さ」を売りにするしか無かったのでしょう。始まりの頃は、「親切・安い」がフレーズでしたし、あっても「密葬歓迎します」ってぐらいの表記でした。それでも受注はチョコ、チョコと月に2~3件くらい入ってきます。

それが突然「密葬」が「家族葬」に変わりました。一瞬でした。「家族葬一式192,000円」との表示がネットを駆け巡ると、西も東も「家族葬」です。病院にお迎えに行って、自宅に戻りお葬式の話をしようとすると「私のところは家族葬でします」とその余波を感じたのはこの頃です。

これまでの密葬と違い、どこか温かなイメージ。故人そして儀式をおざなりにしていない神聖感。それでいて費用を抑えやすい。葬儀の中で消費者側が初めて「価格をリード」できる環境ができたこと。これが今までのどのワードよりも一番強く受けた理由とみています。

費用をかけない。いや、かけれないのは誰しもがある事です。たくさんの費用をかける方も自由です。何がベストで、何が負荷になるのかは基準がありません。

何でもありですか?

消費者にメッセージを伝える事を忘れ、長らくの間、専門性と儀礼での必要性を、アバウトな商品構成と適当な説明で高額な物を押し付けて過ごしてきた結果、今度は業界内部から直葬を推し進められてしまい、果てはセルフ葬まで推奨されてしまう。

葬送儀礼を捨て去り、己の利益だけを追求する多くの個人業者を含む業界関係者の方が、自らの姿勢を正さない限り葬儀を通じて時代、時代に伝えなければならない様々な物事を軽薄化させ、大げさかもしれませんが将来の日本の在り方までもがおざなりになってしまう危惧がこの業界の姿勢にあると思っています。

このブログで葬儀業界について話すきっかけになったのも、それまで対応してきた「個々の家」の縦のつながりや横のつながりに大きな変化を感じ、希薄さが軽薄な葬儀を生み出す温床にになっている気がしての事からです。

心ある業界の担当者の方が現場で頑張っても、尊敬できるよな経営者が少ない(少なくとも私はそのような方には出会った事はありません)業界ではいつか心が折れてしまうかもしれない。

子(父母)が親(祖父母)を送る中で孫やその家族達が学ぶ事、親族や他人の中で学ぶ様々なしきたりや順序事は、臨場感のある場所でなければ真剣には伝わらないのではないかと感じますし、自分がしっかりと真剣に親を送らないと大切な事は次に伝わらないのではないでしょうか。

「子供に面倒をかけたくないから簡単に」なんて言葉がでてくる時代になったのも、私も含めて葬儀業界に携わる皆さんが危惧を感じなければならない事だと思いますが、それを尚且つ助長して、しかも、受注のために利用している業者がいる限り心貧しい業界に成り下がっていくだけです。

こんな時代ですが、少なくとも葬儀の現場では売上のためでは無く葬送儀礼において葬儀の意義を、メッセージを伝える責務はあると感じています。

それを仕事としてお金を得て生活をさせて頂いてるならば…

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