ヤクザの親分の葬儀から学んだもの

お墓の前に座るちょっと体が透けた女性
お墓の前に座るちょっと体が透けた女性

現在は暴対法により携わる事もなくなりましたが、これまで結構、ピリピリするその筋の方の葬儀を経験してきました。組織で生きる方々の、その葬儀の場での言動から、真の配慮というモノを学んだのは事実です。

親分の葬儀の現場

正直、疲れます。でも、この組織の中でのルールには命懸け的な部分もあるので、その規律や厳しさは、私の仕事上においても参考になるものはありました。

例えば、下足番という役割があります。親分衆が集まってくる場所で履物を預かり、下駄箱に納め、再度、用意する際には、その方の履物を絶対に間違えてはいけないルールがあります。

私達の世界なら「あっ、すみません」で済むのですが、こちらは違います。履物を間違うという事は、その方の顔を覚えていないという事。下足番を担当する者の親分の顔に泥を塗るというか、躾がなっていないと取られます。顔で商売する世界。なので命懸けです。

葬儀の場では、履物を脱いでという場面は少ないので見かける事はなかったのですが、顕著に縦関係の厳しさを感じたのは答礼場での事でした。答礼場というのは、参列いただいた方へ葬儀委員長(最近は減りましたが…)・喪主・遺族代表者が、焼香を終えた方へお礼の見送りをする役割と場所の事です。

この時の葬儀委員長は、大抵、葬儀を行なっている組長より上部団体の要職の方が務める事が多く、いわば組織では「上」の人です。

遺族・親族の焼香があり、関係団体や付き合いのある方々の指名焼香が済み、一般の焼香あたりまでは、その葬儀委員長も立っていますが、最後の焼香になる、葬儀の施主側の組の構成員の時にまで立たせていると、その方より「下」の者へ「上」の者が頭を下げる事になります。

なので、お下がりいただくタイミングを間違うと、どえりゃ事になってしまう訳です。葬儀屋さんにはそれぞれの立場関係が分かりませんので、ここはその組の幹部が、サッと判断して行動しなければいけない。なので、一般焼香に入ったら見極めが求められます。

バカな担当者の場合

このような言動は、私の現場でも参考になりました。一般の方の葬儀でも参列者が多い場合、答礼場を設けますし、少ない場合、座っている席の場で立っていただき済ませる事もあります。この時、いかに遺族に配慮するかを学びました。

よく、通夜などで遅れて参列に来られる方がありますが、その時、すでに答礼場は下がっていただいている。葬儀の担当者の中には、その方の焼香のために、一度、席に戻った答礼の役割の方に対して、再度その場所へ出向くよう促す者がいます。

バタバタと慌ただしい感じで答礼場に立った喪主・遺族が、焼香を終えた方を見送り、席に戻ろうとしたらまた遅れてきた方がやってくる。戻るのか出るのか。そんな事をやっている担当者。挙げ句の果てには、「まだ来られるかもしれませんので、そのままで」なんて言う。

そうこうしている内に、誰も来ない焼香の場の横で、皆さんの方を向いて目のやり場に困る答礼の役割の方と参列者。これでは、まるで見せ物のような扱いになってしまいます。

こんな時、遅れてきた方の焼香のために数人の遺族を動かす必要はないと、私は思うのです。遺族を辱めるようなやり方は、優しさがない。配慮もない。ヤクザ屋さんなら、もうやばい状況ですよ。でも、素人だから担当者は安易に考え、その気持ちを理解していない。

花札も命

親分の葬儀では、供花に上げる名札も気を使います。順序はもちろんの事ですが、いかにまっすぐ、同じ高さで立てるかが大事なんです。なので、紐を張ってでも揃えます。これも、どえりゃ事にならないよう。また、火の粉が降りかからないよう。そして、二度手間をかけないための防護策で、ある意味こちらも命懸けです。

一般の方の葬儀ではそこまでしませんが、それでも壁のラインを目印にしたりして、まっすぐ同じ高さにします。生花部の方でもそこまでこだわる人もいないのですが、逆に彼達の商品なのに、そこにこだわらないのが不思議で仕方がなかった。

最近は幕を張る事も無くなりましたので、葬儀を行う場所のセンターを意識したり、同じ高さという、ごく単純な事にも気を使わない担当者が増えましたが、私たちの時代は数センチずれていても気持ち悪かった。左右対称がぴったりじゃないとダメでした。

このこだわりの意識は、相手を敬うという意味でいうと、葬儀も親分の世界でも当たり前なんですけどね。

こだわりの価値観

葬儀は、故人と縁に結ばれる方々のものであり、その本義は、死者を弔う行為に尽きる訳です。その為に、教えを必要とする方々は宗教者の存在を借りて、自らの菩提心に気づくための時間と空間だと思っています。葬儀屋はその世界観を作り出すだけで、主ではないのです。

現在のような葬儀進行の演出にこだわる風潮は、いつしか葬儀屋が、葬儀を行うための主になっているという驕りからだと私は思っています。幾度となく書いていますが、葬儀における司会者も、私は進行係だと思っていますし、こだわった喋りは儀式に必要なものでもない。

そして、素人が申し上げるのも何ですが、宗教の本義は、生きる上での意味を知る事だと思います。なので、お寺様も葬儀だけのために存在する訳でもない。葬儀のお布施が定額になろうが、布施の意味をなんて、とやかく言う前に本義を見つめ直すべきではないでしょうか。

親分の葬儀を経験して感じたのは、敬いと厳しさを持った配慮こそが一番の礼儀ではないかという事でした。それがあってこその尊厳であり、必要なのが葬儀なのに、これに関わるそれぞれの世界の方は、その価値観へのこだわりを捨て、安易な方向へ仕向けているのも事実です。

なので葬儀においては、そろそろ原点回帰の視点が必要ではないかと思います。それが結果的に繁栄を生み、長続きする秘訣ではないでしょうか。だって昔から、親分は親分… 違う、餅は餅屋って言うじゃないですか。葬儀屋は葬儀屋。お寺様はお寺様。IT屋はIT屋なんで、それぞれが己の本義に正しく向き合うべき時ではないでしょうか。

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