最近、Amazonのお寺便に関心が高いので、じゃ、お布施っていったい何なのか考えてみた

托鉢する僧侶
托鉢する僧侶

Amazonお寺さん便問題で初めて「葬儀のお布施の目安って何だ?」と考えた方も多いと思います。批判の多くは、仏教の成り立ちや、その教義における意味を考えずににわか坊主のような意識で批判的な意見を言っている方も多いと思います。せっかくの機会ですから、一度、ゆっくり考えてみませんか。

お布施の目安… 皆さんはどう思いますか

最初に申し上げますが、お布施には決まりはありません。

お布施の考え方として、「お礼」という感覚で捉えている方もいらっしゃると思いますが、このお礼という言葉、考え方は基本的に間違ってます。大きな視点で見た場合、あながち日常的に使う言葉としては間違ってもいないのですが、本来のお布施の考えの根底には、施しに対する感謝の意味があります。

お布施という言葉自体もお寺様や教団などに対してお金を収めると言う意味ではなく、お互いの地位や立場を超えて、教え(法)であっても、食料であっても、土地や財産であっても、労働であっても、自分ができる事を惜しまずに与え、施す事がその意味になりますので、お寺様が行う行為に限ったものではなく、衆生の私たちも、誰に対してでもできる事であります。

行う側、受け取る側、そして施物の三者に対して、心物ともに全てが清らかなものでなければなりませんし、その上でのお寺様から言われる「お気持ちで」との言葉の意味を、お考えいただくことも一つの供養と思います。お布施とはそういったものとお考えください。

と、言って念のためにいろいろ調べていると、クラクラしてきた話

やはりですね、情報が多すぎる。「お布施」と検索するだけで、懐かしの東大阪市の布施(昭和時代の地方的な大人の町)から、目的とする仏教におけるお布施まで、これだけ出てくるとクラクラします。葬儀業界の感覚があってもこれですから、普段、関わりのない皆さんはムリですね。改めて思いました。

お布施というワードで検索をする方の大半は、「いくらぐらいなん?」というのが目的。逆にサイト上に溢れる情報は「お布施についての教義」なんですが、そのどれもが受領側(宗教者側)からのメッセージ(要望する心)をオブラートで包んだようにしか見えない情報が目に付きます。これでは、なかなか本質が見えないと感じます。

確かに布施の行為について仏教的、宗教的な解説は必要だと思いますし、その定義を省いての行為になれば、全日仏などが危惧する、宗教行為そのものが葬儀や法要におけるサービス(商品)として取られ、その対価として「支払う」との程になってしまいます。

「葬儀本.com」に掲載されているお布施の価格一覧に対して削除の要請|全日本仏教会
http://www.jbf.ne.jp/news/newsrelease/archive_news/163.html?searched=%E5%B8%83%E6%96%BD&advsearch=oneword&highlight=ajaxSearch_highlight+ajaxSearch_highlight1

お布施ついて宗教者側からの考察

今回、お布施について一番詳しく書いていた京都に在籍し活動する「仏教クラブ」さんから直接引用しました。(これも教義を広め、仏教を理解いただくためのお布施として引用です)

【魚拓】布施とは・・・・by 仏教クラブ
- 2016年4月16日 06:44 - ウェブ魚拓
【魚拓】経済至上主義の現代における仏教徒の布施行為とは?
- 2016年4月16日 07:23 - ウェブ魚拓

やはりお布施という行為は、それを行う方、受領する方の生き方の問題なんですね。お布施の問題を考えるとき、ともすればその知識を有する宗教者側の話が主体になりがちで、行為を行う衆生(葬儀の施行者)に、その意味を促す内容の記事が多いのですが、果たして受領する側の心は、どのような位置に存在するのかも大きなポイントだと思うのです。

先ほどの仏教クラブでの言葉から三輪清浄・三輪空寂の部分を引用します。

ですから、仏教徒は、その布施行為のバランスがとれるように三輪清浄を目指し、布施行をするわけです。このことから、施しを受けようとする側にも、ある種の清らかな条件が満たされていないとその清らかな布施という行為を受け入れられようはずはなく、布施行為を全うしたければ、ますます、三輪清浄といった状態を、お互いが認識し合える状況を作り出すことも不可欠な要素となってくることに気づくのです。

三輪清浄・三輪空寂
「原語トリ・マンダラ・パリシュッディ(tri-man.d.ara-paris’uddhi)、他人に対する奉仕の心構え、物を与え、奉仕する主体(能施)と、奉仕を受ける客体(所施)と、奉仕の手段となる物(施物)と、この三者は空で清らかであらねばならない。驕りがあってはならない。もしも「おれがあの人にこのことをしてやったのだ」という思いがあるならば、それは清らかな慈悲心から出たものではないのだが、このお話、三輪清浄の心から生まれたすがすがしい情景である。

良き父であり、良き母である住職

現在の仏教者の多くは妻帯者であり、子供がいる方もあります。生活レベルもそれなりを維持されていると思うのです。生活を維持し、子供を育てる事に金銭的な苦労をされているレベルが、真の意味での生活困窮者に比べては恵まれている方も多いとみます。

中には、高級乗用車を乗りまわす方も残念ながらいます。乗ってはいけない訳ではないですが、衆生から見るお寺様の生き様は、釈尊から流れるその教えを伝える、実践するために質素を基にし、生きる意義を追求する求道者のイメージであり、高級乗用車を乗り回して、夜の繁華街を徘徊する姿ではないのです。

大きなテレビを生活空間に置いたり、趣味の活動に勤しむ。それも自由だとは思うのですが、寺院施設を維持するための経費を節約する事も大切なことだと思うのです。住職をはじめとして、そこで生活する方々の生活資金を節約する。普通自動車でなくとも、経費の少ない軽自動車でもいいのではないでしょうか。所有できない方からすれば贅沢な環境です。

檀家や葬儀の際の依頼者の負担(お布施)を少しでも減らすという観点から見れば、まずご自身の生活レベルを見直していただく必要があると思うのです。法衣一つとっても高額なものですし、必要なものは仕方がないのですが、もはや、菩提寺を檀家が支えるシステムが難しくなってきている現状では、お寺様にかかる経費を削減する努力も必要だと思います。

寄り添う気持ちを感じる環境が、お互いに必要かなと思う

そして、三輪清浄・三輪空寂と言うならば、お寺様が衆生の生活レベルに合わせるのが、逆に「お気持ちで」と言うことではないでしょうか。自身の俗人としての生活レベルを下げる努力がまずありきで、布施という行為を釈尊の時代の言葉を借りて説明するより、実践されている姿の方が説得力があると思うのですが。

一部には寺院を維持するのにご苦労され、存続が危ぶまれる環境にある宗教者の方もいるとは聞きます。宗教界に対する三日坊主の意見に対して、崇高な気持ちを持ちながら活動されているお寺様に対して失礼なと言われる方もいます。

が、その世界で生き抜こうと決めたのは、その方々であって、宗教界だからではなく、どの業界でもそこで生きると決めた以上、全ての責任は自分にあり、その活動が評価されるかどうかは社会が決めることです。裕福な寺院でも、苦労の絶えない寺院でも、それこそが、その方に課せられた修行でしょうし、それとどう向き合うかは業の問題ではと私は思います。

お寺様を取り巻く環境は厳しいと思いますが、それは私たち衆生も同じです。国の行く末を憂い、民の幸福のためにと布教に行脚された時代に、その法(教義)に救われた方達との距離と、現在の距離は全く違います。そのお互いの距離感を近づけるきっかけは、今や葬儀しかない状況で、いかに次に繋げるのかが宗門に問われているのではないでしょうか。

さて、これらを踏まえて皆さんが考える問題です

では、実際にどのように考えればいいのかと感じますよね。宗教寺院は、宗教法人法によって税金は優遇されていますが、その寺を維持するための人件費も当然かかりますし、施設の維持管理にも毎年お金はかかります。宗門としての付き合いもありますし、本山との兼ね合いもあります。それ以外に、お勤めに行くにもいろいろと経費はかかります。

収入の主なものは、やはり葬儀や法要を行った際のお布施収入でしょう。墓地や駐車場、また、幼稚園などを運営しているところではそういった「事業収入」もあります。

年間で依頼されるお葬式や法事の件数もおおよその目安はあるでしょうから、維持のための総必要額を大まかに仕分けると、(宗教法人収入+事業収入+その他の収入+助成金)−(税金+維持管理費+その他雑費+人件費+生活必要資金)となります。(実務はもっと詳細です)

当然不足額があったり、事業収入がなく、宗教法人の収入(葬儀・法事など)だけで維持している(ほとんどでしょうが)お寺さんもありますので、その不足分を、年間の葬儀・法要件数で割った金額がお寺さん側からすると「必要とされるお布施」の目安ですし、施主から聞かれた葬儀社側としては、どの程度で賄えるのかはわからないので、あくまでも目安ですとお伝えする金額になります。

足る事を知るって言いますけど、必要以上にいただいた場合は? 

まさか、お寺様から「当寺院は、年間でこれだけの経費がかかります。法を守り、教義を伝え残していくためには、お布施としてこれぐらいは必要ですので」とは言えませんよね。

これまで、法(教義)を守り、伝えるために衆生は自分ができる事を法施として行ってきました。人が集まるのに必要ならばと土地を提供し、集まる方々に食を施し、衣服を持ち寄ったり、物資、お金、行動、労働、聴聞などなど、様々な形で行ってきたのが布施です。

Amazonで販売している、みんれびのお寺さん便などの問題で感じるのは、全日仏側が、お布施はサービス(作業)の対価ではない、法(教義)を寺院を維持するために法施いただいているものだ。とするならば、余った時にはどうするのかなっと思ったのです。

次年度に繰り越す? 事業としてはそれも必要ですね。こんなご時世ですからいつ収入が激変するかもしれない。でも、宗門の人間として生きる事を決意されたのなら、明日を案じるのも不思議な、俗的な感じもするのです。神様、仏様は必要な時に必要な分だけを与えてくださると、私は思っているのですが、違いますかね。(と言って、どんぶり勘定ではいけませんが)

そういった事を衆生が言うと、「いえいえ、仏道における法施はそのような気持ちではありませんよ」と言われる。でも、俗的な部分がお寺様にもチラホラ見えてしまうと、愚生の私たちは、崇高な思想ではなく、ダイレクトに「お金」を考えてしまうのですよ。

「観えない」人々に「見える」ようにする努力が必要です

宗門の世界も、昭和の初めくらいまでは、別院の住職なんて立場は「お殿様でしたよ」と、歴史ある寺院の方から伺った事があります。これまた地方の歴史ある寺院から別院に嫁入りする時には大名行列のごとく、輿で盛大にやってきたそうで、その嫁入りの輿を実際に拝見しました。お話を伺ったのは、そのご子息ですから、若殿様です。

仏事ごとは末寺が全て行う。別院維持のために末寺が上納する。別院住職は、別院での法要と本山へ出仕するのがお勤め。本山でも高い席に座る方。でもいつしか、末寺は檀家を全て持って行って、気がついたら別院の檀家は著名な方ぐらいしかいない。文化財級の施設を維持するにも、その生活を維持するにも誰も助けてくれない。気がつけばそんな状況だったそうです。

そのような時代には「おらが殿を守る」と言いますか、その歴史を守ろうと檀家衆は心血を惜しまなかったのですが、今はそんな時代ではなくなってしまった。いつしか、お寺様はお葬儀の時に登場する人みたいに捉えている衆生も多いのです。そして、そのありがたみを、法(教義)に対してではなく、お寺様という人間に対する対価と勘違いするのが現実なのです。

このような時代に何が正解かはわかりませんが、いかに「感謝」の気持ちを持って具現化する事に喜びや、ありがたみを感じることができるか、そこが問題ではないでしょうか。もう少し、お寺様の実情が「見える」方が、「観えない」私たちには助かりますし、理解しやすいのではないでしょうか。「お気持ちで」という背景を見えるようにする努力が必要です。

30年くらい前までは、大峰山へ参詣した行者姿の方が、近鉄電車で阿倍野駅に降り立った時に乗客の方が手を合わせてくださったり、腰が痛いからさすって欲しいと嘆願されたりと、そんな時代もありました。

そんな気持ちを大切にできる世の中にしないといけないのが、宗教界と葬儀業界だと三日坊主は思いますので、それぞれの業界が自浄作用を持つことも大切ではと、お布施の問題を考えていて思った結論です。

以下は、関連する記事です。ご参考にどうぞ。

葬儀の現場で伝えてきた、具体的なお布施の目安
葬儀が発生し、見積もりに伺った際に「お寺さんを紹介してもらえますか」と言われた時、必ずと言っていいほど「お布施はどれぐらいですか?」と聞かれます。これまで施行時にお伝えしてきた金額を表記しながらお布施の意義を考えます。

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