実録! 親戚の葬儀から見える今どきの葬儀事情 番外編「葬儀社の皆さんへ」

吊橋を手前から見た写真
吊橋を手前から見た写真

「実録!親戚の葬儀から見える今どきの葬儀事情」のまとめです。今回は、葬儀の現場から見えるポイントを、葬儀業界の皆さんにお伝えしたく記事をまとめました。特に経験の浅い方、葬儀の仕事をやってみようって方に読んでいただきたいと願ってます。

葬儀業界で飯を食っていこうって方へ

これまでの「実録!親戚の葬儀から見える今どきの葬儀事情」4部作では、最近の葬儀業者の事情と言いますか、背景を、消費者の皆さんにお伝えするべく、見積り担当者とのやりとりを記してきました。今回は、葬儀業界の皆さんにお伝えしたく記事をまとめました。特に経験の浅い方、これから葬儀で飯を食っていこうって方に読んでいただきたいと願ってます。

今回、見積もりに来た担当者は臨機応変というか、状況に応じて対応するということができない方でした。しかし、彼が特別という訳ではありません。会社の都合もあるでしょうし、個人的なスキルで見た場合、このレベルはごまんといます。しっかりとした教育システムを取り入れているところでも、残念ながらこのようなレベルに少し毛が生えたぐらいのもんです。

なぜ? おそらくは、自宅などで葬儀を行う事がめっきりと減り、幕を張ったり、祭壇を組んでみたりと、その場の状況に合わせた”考える仕事”をしなくなったのも、大きな原因かもしれません。”葬儀にとって大切なものは何か”というのを”観じる”、学ぶ機会が減ったのも一因かもしれませんし、そんな事にこだわっている人も少ないからかもしれません。そして、もう一つは、慢性的な疲労感に苛まれ、学ぼうとする気力を持てないからかもしれません。

「見て学べ」ではなく、観る事を学ばないとダメだと思います

昨今の葬儀業界では、職人的な技術は不要。そんな教え方はもう古い。経営指標を読み取り、市場動向に目を向けてと、そんな高度な感覚を身につけながらスキルを上げるべきだという方もいます。現場で教える?そんなことをやっていては時間の無駄だ。もっと効率を考えてカリキュラムに沿った人材育成を行う時代ですよ。とも言います。

寿司職人の世界で”にぎる”という事が10年とかかると言われながら、3ヶ月の教育で技術を習得させ、1年にも満たない経験でミシュランに掲載されるという話がありました。先ほどの教育論を持つ方は、「ほらみろ」と思うでしょう。もちろん、葬儀業界も集中して教えこめば、技術的な部分では3ヶ月で見積りから葬儀終了までの全ての現場を任せる事も可能です。

ところが、葬儀は展示会ではないので、それこそ「仏作って魂入れず」のひな型が量産されていくのです。パターンだけでは対応できないのです。もっと、”人が死ぬ”という事を真剣に考えないといけないし、通常ではありえない場へ飛び込み、悲しにくれながらも背景には様々な事情を抱える喪家や、取り巻きの皆さんの心の声を聞かないといけない。

死に慣れてしまうから、学ぶべきポイントの頂点が低くなってしまう

残念ながら、葬儀の仕事(技術)はそんなに難しくもない。表面をなぞれば、誰でも3ヶ月で一人前の顔をして喪家の前に出ることは可能です。しかし、そこで「こんな程度でできるやん」と思わせてしまうと、その先の厳しさといいますか、奥行きの広い、懐の広い仕事を考えなくなる感性を植え付けてしてしまい、学ぼうとする事を止めてしまうのです。

そして一番懸念するのが、できると思った瞬間から”死に対して慣れてしまう”のです。
病院へお迎えに行き、自宅へ搬送し、そして安置する。この流れの中で、毎回、同じ事を話し、同じような行動しかとれない人間になってしまうのです。少しばかり気が利いても、誰でもできるレベルでの対応力しか養えない。そこから葬儀が商品となってしまうのでしょう。

私は、葬儀の仕事はある意味修行であり、一回しかない真剣勝負の場だと思ってきました。
また、死に対しては、お寺様と同じように厳かな世界でもあり、それを仕事としてどう取り組めばいいのか悩み続けてきました。宗門の世界で生きる方も、それに付帯する葬儀の世界も、厳しさは同等であり、イコールお金とは割り切れないものがあります。

謙虚でなければいけないと(自戒を込めて)

自分よりはるかに人生における経験が長い、スキルの高い方でも、自分の言っている事に頷きながら、葬儀の説明に耳を傾けてくれます。見た目は普通でも、おそらく、その方の価値観は私よりも崇高であり、社会的な地位も高いにもかかわらず、目も前では、どこにでもいそうなおっちゃんのように存在しています。

そんなおっちゃんが、なかなか理解してくれない事に対して、言葉は丁寧でも横柄な対応をしてしまったり、また、自分より年齢が若い方に対して横着な対応をしてしまう。他にもたくさんありますが、要は、死に慣れるということは、このように、知らず知らずのうちに自分目線で物事を判断してしまう懸念があるのです。自分の価値観で相手を見ているという事です。

相手が大きな家に住んでいようが、小さな家であろうが、お金を持っていようが、なかろうが、どのような方でも、その方の人生においての過程は誰にも真似できるのもでもないし、学ぶべきところがたくさんあるはずだと、私は思います。自分に無いものを持っているのですから、尊重と尊敬を持ってその方に対応すべきなんです。だから、真剣勝負だと思います。

私に教えてくれた先輩方は嫌になるほどわがままで、自己中で勝手なことばかり言っているなと思いながらも、それはある意味、自分の写し鏡だと思ってきました。見て学べというのは、何も技術に限ったことではありません。人の嫌だと思うところは自分にも存在するし、それを見せられて教えられていると取るか、相手が悪いとしてしまうかの違いだと思います。

そこから抜け出す、一歩先に出るためには、何よりも周りの人よりも心技体ともに、できるやつにならないと認めてもらえないので、努力するしかない訳です。一生懸命に学び取るしかないのです。人との関わりをはぐらかしながら適当に合わせて生きて行く。そんな事をしていては、進歩がないのです。厳しさと怖さを忘れては葬儀の仕事はできません。

どこにいても学べる事はあると思いますが

私が在籍したところでも、会館に備え付けの祭壇を片付けて掃除をしようと言った時、一通りの作業を終えて、いざ、祭壇を組もうとしたら「どうやって組むんですか?」と言った子がいました。彼はその葬儀社で3年ほど勤めていたのですが、誰も教えてくれないのでとか言ってましたが、逆に3年間もの間、あんたは自らが進んで掃除してへんのかい!と驚きました。

今回のような担当者も含めて、彼らは目の前にある、映るものがすべてなんでしょう。入社した時から祭壇はホールに飾ってあるから、動かしてはいけないものぐらいに思っているかもしれません。また、自分一人では、何かをしようともしません。お金を全ての価値観としているとは思いませんが、日々、創意工夫するという意識はまったく持ち合わせていません。

こんな状況で、3年、5年、10年と経験を積んでも、まったく意味がないというか、葬儀を形式で捉えているから応用が利かないのです。

皆さんは普段何気なく扱っている、葬儀の道具などに何かの意味を考えた事はありますか?
先輩から教えられるのではなく、日々の葬儀の経験の中で”観じる”事です。外飾りの現場を終えて戻り、鯨幕(蘇幕)を片付けている彼に「なぜ、鯨幕っていうんだろうね」と問いかけると、鯨のお腹と背中に似ているからじゃないですかとの答えが返ってきました。

ま、確かに商品としての呼称としては間違ってはいないと思います。私自身は、誰に教えてもらった訳でもありませんが、いろいろな現場を経験してきて”観じた”のは、鯨幕によって天上界、地上界が混在するこの世を表していると考えています。生と死、陰と陽を表現しているとも思いました。死が陰でもなく、生きている事が陰かもしれないとも思っています。

葬具に対する観念(宗派により解釈に違いはあります)

祭壇を飾る部屋、お寺で言うところの内陣にあたりますが、この部屋から入り口の焼香場所までの部屋は全て白幕です。清らかな世界。阿弥陀様やご本尊様をお迎えする空間ですから、清らかな白を使う訳です。色つきの水引が出てきたのはもっと後です。祭壇も白木と言いますし、須弥壇(須弥山)のごとく裾が広く天にそびえる様をしていました。

外回りには鯨幕を貼ります。天上界から見て下界は、心悪く、悪人のような人もいれば、仏様のような心を持った方もいる。それらが混在する様を表現している世界観として鯨幕を使用していると私は思っています。なぜなら、鯨幕を張った外から一歩中に入り、玄関裏側から部屋の入口までのわずかな場所に、古くは薄墨(うすずみ)という鯨幕を張っていたからです。

上り口周辺と言いましょうか。そこは、下界から浄土へ向かう空間で、少し下界の世界観が薄まり、法(教え)により浄化された世界に触れる、近いことから、白と黒が交わる空間であり、そこを表すためにそのような幕を用いたのです。枚数にして両側に1枚ずつくらいしか張りませんが、ちゃんと使用していないと結構うるさく言われました。

最近では棺を祭壇の前に置いたりしますが、古くは、祭壇の奥にかなり高い台を置き、その上に持ち上げるようにして安置しました。棺前という祭壇の装飾がありますが、古くからの輿、今でいう柩車を模した飾り付けと言われています。そこに収めているように見えるようにと、また、ご本尊に近づける意味で、高いところに安置したと考えます。

壁には白幕を張り、棺を安置し、その前には一枚、釣鐘の形にくりぬいた幕があり、厳かな感じを出すためなんでしょうか、そこには薄く透けるシャーの生地が張ってありました。それを必ず張ってから、その前に初めて祭壇を組みます。

このように祭壇周りの飾り付けには、結構なほど手間をかけていましたし、様々な葬具を用いて仏様の世界観を表していました。一つ一つの物に思いがありましたし、意味をもたせていました。意味があるから存在していたのですが、悲しいかな、今では、祭壇は遺影写真を飾る台と板であり、その周りを花で飾るためのスペースと思っている人もいます。

無用の用って必要です

こんな意味を知っているから、観じたからといって給料が上がる訳でもありませんし、知らなくても、観じなくても葬儀の仕事はできます。でも、何事にも”無用の用”というのはあると、私は思うのです。人間、わずか30cm幅の板でも平地なら歩けますが、目もくらむような場所にかけられた橋なら、怖くて渡れません。10mいや100mあれば渡れるかもしれない。

転がっても落ちる心配がないほどの幅、それが、その人にとっての安心という”用”なら、その幅は人それぞれなのです。自分にとって必要なだけの”用”を探し求める事も、学ぶ事ではないかと思うのです。給料を得て、生活の糧としての仕事もあると思いますが、その道を歩くことで初めて学べる事もあります。

一度は探究し、自分が納得いくまで探し求めてみる、経験してみる事によって、初めて”観える”ものもあります。そう考えると、葬儀の仕事だけではないですが、仕事を通じて修行するというのも、宗教にも通じる道でもあると思っています。そして、その中で積み上げた無用の用が広ければ広いほど、引き出しが多いといいますか、応用が利くのではないでしょうか。

謙虚であれ、厳しさを持て、怖さを知れ(自戒を込めて弐)

予てから思っていますが、葬儀の仕事をさせていただくということは、徳を積む仕事だと私は感じています。その徳は、現生利益ではなく、自分の人生において、また自分の末代において生かされる。あるいは、自分のご先祖に対しての功徳ではないかと思います。

自分に徳がないから積ませていただくのではなく、一族の中で徳を積むことができる耐久性を持った、スーパーヒーローかもしれないのです。苦しい事や辛い事を経験しながら、死と生の間を橋渡しする。そんな仕事ですから。技術としてではなく、世界観として、一度は突き詰めて欲しいと思います。

その中で、自分たちが葬儀という仕事を通じて、しなければいけない事も見えてくるのではないかと思っていますし、そんな思いを持てば、安易な葬儀を行う、そんな商品を世に出すなんて愚かな発想は出てこないのではないかなと思います。同じ愚かであっても、愚直なくらい葬儀に関わっていただきたいと、今回の伯母の葬儀を通じて思った次第です。

何度も言いますが、慣れは、葬儀を商品として見てしまいます。商品とは、利益を得るためのものです。経営という観点から見れば間違ってはいませんが、葬儀は本当に厳しく、怖いものと思います。その気持ちを無くしてしまったら、ただの金儲けの作業にしかなりません。

「まごころ込めて」、「誠心誠意お世話に努めます」なんて、キレイ事を言って繕っても意味はありません。頭で理解しても、言葉だけが一人歩きしても、心技体が理解していなければ厳しさも怖さも実感できないのです。

努力すれば、誰もが観じる事ができるモノでもありますが、それを感じるから、観じるためへの努力をしない人には、葬儀の仕事をする資格は無いと思っています。

どうか皆さん、そんな世界観もあるんだと心の隅に置いていただいて、今一度、自分の仕事を振り返ってみていただければと願っております。

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