冠婚葬祭儀礼が、資本主義の犠牲になっていると感じる

苦悩する少女
苦悩する少女

冠婚葬祭を主たる事業とする互助会。これが始まってから約50年ほどが過ぎてきたが、設立時の趣旨と現在行われている施行は魅力があるものなのだろうか。資本をかけて豪華な施設を用意しても、どこでもできる内容なら選択肢からいずれ外されてしまうのではないだろうか…

老舗の互助会でいけてない事が起きた

そう感じたのは、先日、結婚披露宴に出席する機会があっての事でした。ホーム形式の披露宴の式場で、新婦の友人として参加する人数が八人で、四人は地元の友人たち。個人で参加しているのが四人、そのうち夫婦で参加しているのが私ども。

で、後の二人はウェイティングルームで、少し離れた椅子にポツンと離れて座っている状況でした。その椅子も少し高いので、まるでマクドナルドで座っているように、一人づつ携帯をいじって時間を過ごすしかない状況になっている。

新郎側は会社関係の方が多く、こちらは皆さん知り合いなのでいろいろ話をしながら時間を過ごしている。この部屋にはコーヒーなどをサービスするスタッフが数名いたが、この二人に配慮する人間は誰もいない。お決まりのようにドリンクサービスの注文時だけ話しかけてくる。

新郎側のゲストなら談笑している皆んなと一緒に座るだろう。そうでないという事は、新婦側のゲストではないかと推測して私は座席表を確認してみた。間違いない。私たち夫婦が着席するテーブルには女子の名前だけなので、後で同席する予定になっている人の誰かなのだ。

知り合いじゃないけど、もう、お友達です

なら、後で「先ほどは…」なんて会話をするぐらいなら、今からフランクになるべきだ。披露宴が始まるまでまだ40分以上あるから誰とも会話せず待つのは楽しくないはず。新婦からも、大阪から一人参列する友人がいると聞かされていたし、声をかけてあげればどうかと話し合っていた。知り合いではないが、知り合いになるべきだと。

人数が限られている披露宴ではこのようなケースもあると思うのです。新婦とそれぞれ友人はつながっているが、その友人同士はお初なのです。披露宴の場で、新郎新婦の垣根を外して、そこに集う人々が気持ちを共有しコミュニケーションを取れるイベントを、事業者は考えないといけないのではないだろうか。

老舗の互助会が運営する結婚式場だったが、これまで40年以上、冠婚葬祭に従事してやってきたノウハウってあるだろうと思うのですが、ここを配慮できないって、これもモノを売っているだけの商売なんだなと感じたのです。開式1時間前に来ている皆さんを、もっと巻き込むイベントを提案できないとダメだなと思いましたわ。

モノを売っているだけではホテルに負けます

今回は、新郎側、新婦側別に用意された人形にメッセージを書くのがあったが、数分で終わってしまう。ハンドメイドの良さを生かした、全員で創作でき、形に残り、バカみたいに大きくない、後々、自宅玄関やリビングにでも飾ってもらえるようなモノを考えてやればいいのにと思っていたのです。そこに笑いがあれば、皆さんがフランクになれるし会話もできる。

また、この式場は料理の鉄人と言われる方が顧問料理長を務め、監修しているそうですが、それを生かすも殺すも現場なんですよね。確かに料理は美味しかったと思いますが、空間をまとめるコーディネーターの力量がなければ活かされない。現場で人の気持ちを「観じる」ことができない限り感動は生まれないと思います。

私はこのような時に、その人の気持ちを「観じる」と気が気でないのです。一歩式場に入った時から新郎新婦を祝うために集まった人々なんですから、同じ目的で集まった人同士ファミリーにしなければいけないと思うし、お一人様だけでなく、皆さんとコミュニケーションを取れるイベントをしないとダメだと思ったのです。

式場を提供し、料理を出す。司会者は時間になると現れ、おもむろに皆さんをまとめようとする。なぜ? この式場で結婚式なり、披露宴を挙げてもらって良かったと思ってもらい次に繋げるためでしょう。なら、その空間作りを式場に一歩入った時から始めるべきです。

儀礼の大切さは葬儀も同じです

こういった感覚は、葬儀にも必要だと思うのです。故人の生き様、命の尊さ、その人生で育まれた思いや願い、それらを参列者が共有できる空間作りと配慮が葬儀にも常に必要だという事です。それを継承するのが葬送儀礼でもあると思っています。

葬儀の場合、喪家と接触する時からこれは始まっています。電話を受けた時点から始まっているのです。当たり前のようにいつもの流れなんて感覚で物事を見ているから、自分達の裏側を見られてしまうのでしょうが、喪家は非日常的な状態にある事を感じないといけない。

私の伯母の葬儀の時もそうでしたが、自宅前で親族が集まっている狭い道に当たり前のように入ってきて、深夜だから家の前に停めれると安易に考えてやってきた担当者も、その時点からスタートだと思っていたのでしょう。これでは人柄や思想が見透かされます。思惑とか狙いとかを隠して、いくら親切な言葉を吐き出しても心がこもっていないから感動しない。

このような場合、どうしても小さな不満が残るのです。冠婚葬祭の儀礼が終わっても、何かが引っかかる。メインは故人であったり、新郎新婦なので、その方々への思いは残るのですが、感動したり、心が揺らされるのはその思いだけに頼ってしまている状態でしかない。これでは貸し式場屋でしかないということです。

資本主義の中で模索しっぱなし

冠婚葬祭といえば互助会となるのでしょうが、この業態の冠婚は夢を売るのが仕事ではないのか? 葬儀は感動を売るのが商売ではないのか? これを実現するためには、スタッフ一人一人のスキルしかないのです。働く人々の環境を整え、社長の顔色ばかり伺う仕事をさせず、正当な評価を受けるシステムを構築するために経営者は利益を使うべきなのです。

資本主義のために、業績を追い求め、前年対比にばかりに目が向くのでしょうが、もっと人を大切にしないとダメですよ。強迫観念と利益の搾取ばかりやって、一族の資産を増やす事に夢中になっていては、お客様に夢は売れないですよ。

儀礼の本質を見失わず、数多くのライバル会社の中から自社を選択してもらうためにどのようなコンセプトを持って取り組んでいるのか、その発表会を毎回、現場でやっているようなもんです。その会社に魅力があるかどうかはトップの資質にありますし、各現場の責任者が、冠婚葬祭のセレモニーの怖さと厳しさを知っていないといいものは生まれてこない。

儀礼を大切にしたいとメッセージを発信する会社もあるが、現場のスタッフはそこまで感じているのだろうか。言われるからやっているだけ。そんな風潮はないのだろうか。経営者の想いや願いとスタッフの信念がずれている。そんな環境だからか、お一人様の気持ちすら気付かない意識だからか、モノで飾ったセレモニーを高額で販売するしかないのかな。

夢や感動を創造できるスタッフのためにお金を使ってください

今回のお一人様は二人いたが、この方達は自分の結婚式の時にはこの式場を選択しないでしょうね。新郎と新婦への思いはあっても、空間に対する憧れがなかったからです。その方に感動を与える事ができていれば、次回はあったかもしれない。これは、葬儀も同じ事。

この方々以外にも、冠婚なら独身の方も参列していただろうし、葬儀の場合でも親族を含めて参列者もたくさんその空間に集うのです。その中から、「自分の時には」と思ってもらえる仕事をしないといけない。地域的にそこしかないからの選択では、長続きしない。

相手の心を観じて行動する時、それをさりげなく行いながらも、きっちりと相手に趣旨を伝えないといけない。これ見よがしにやってはいけない。伝える事ができないのは、ただの親切。親切を売っているのではないのです。そこから感動を心に売り込まないとダメなんですよ。

品評会と思って見て、評価してください

冠婚葬祭とも同じ会社でやっている以上、そこに流れるエッセンスは同じです。感動を生む仕事、それを作り出せるのは何億円と施設にお金をかけてもできないのですよ。

そんなに使えるお金があるなら、優秀なスタッフを育てるために数千万円を投資しても、夢のある給料・報酬・役職を与えてあげても安いもんだと思うのですケド。

皆さんも、後悔しない婚活・終活のために冠婚葬祭に参列した時によく観察しましょう。あなたにとって、感心や感動を感じない施設や会社では相談しない方がマシです。

会社事情や様々な背景を感じ取れるのは、スタッフの仕事ぶりでわかりますから。

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