直葬(ちょくそう・じきそう)についてのアドバイス

弟に話しかけるお兄ちゃん
弟に話しかけるお兄ちゃん

タイトルに「直葬は、」なんて書いているのに、そういえば直葬だけを取り上げた記事を書いていない事に気付き、今回、その意味、その商品が存在する背景などを改めて考えてみました。

直葬とは?

すでにみなさんご存知ですが、直葬(ちょくそう・じきそう)とは、まさしく名の如く、直接葬る形の葬儀です。病院で亡くなられた場合、自宅か葬儀社の霊安室か、もしくは公営・民営火葬場の霊安室へ安置し、翌日以降に火葬だけを行うものです。

良心的な葬儀社では、遺体を安置した後も安置室に同席でき、故人とゆっくり最後の時間を過ごす事は可能ですが、多くは同席を許しません。火葬場安置の場合は基本的に無理です。

小規模な葬儀社がこのプランを積極的に販売しているところが多いので、施設における安置場所のキャパがなく、そのために安置後は翌日まで再会する事はできません。ひどいところでは、一部屋に数体の遺体を預かるため遺族が同席できないのです。

これに対して、ゆっくり故人と過ごせる空間を提供する「遺体ホテル」も出てきてきました。首都圏から始まり、大阪にもあります。いわば霊安室の集合体のようなもので、遺体を安置できる上、同席可能としたものです。そして24時間出入り自由を売りにします。

何れにしても、宗教的な葬送儀礼は行う事はできず、出棺前や火葬場での読経を依頼して、それを宗教的な儀式だと、大げさに言っている葬儀社は多数います。

そもそも葬儀とは?

葬儀の言葉は葬送儀礼を略したものであり、本来は故人を弔う行為を意味します。故人、またはその遺族が信仰する宗教があれば、その儀礼作法に則って葬儀は行われます。

多くの方は、葬儀 ≒ 仏教と思われがちですが、仏教は葬儀がメインの存在ではありません。葬送儀礼において仏教が存在するのは、故人の成仏を願う事であったり、浄土へ送る事であったり、死して初めて戒を授かり、その魂が修行に励む事を諭す場でもあるからです。

なので、臨終から出棺(中陰以降も含む)までの間に行う、各宗派の儀礼作法には、必要な法具・葬具もありますし、作法もあり、決まりごとが存在します。なので、これを否定している直葬は、読経を含むカタチであっても、正式な意味では葬儀とはいえないのです。

死者を送る葬儀は、人が生きるという意味・意義を見つめ直す機会でもありますので、そこには、その行為にふさわしい空間と時間が必要なのです。なので祭壇を飾ったり、幕を張ってきたのは、荘厳さを演出するための方便の行為であり、葬儀社が担当してきた事です。

ある意味、葬儀には絶対的な決まりやダメな事はありません

葬送儀礼として宗教的な観点からは「ダメ」と言われる行為があります。皆さんが分かりやすいのは、故人の枕元に一膳飯をお供えする時でしょうか。

浄土真宗では、一膳飯は不要で供えません。あえて供えるならご本尊に対してのお仏飯であって、故人へ供えるものではないのです。なので、お箸は添えないし、立てません。出棺の際、その茶碗も割りません。すでに極楽浄土へ往生されているので、死は汚れではないのです。

宗教的な縛りと言っては失礼ですが、故人に対してコーヒーやあんパンを供えたり、ビールを供える行為は一切してはダメと言われます。これは、葬送儀礼における宗教的観点です。

しかし、葬儀は遺族のものでもあります。故人を慈しみ供養を願う、その気持ちから行う行動には絶対の決まり事はありません。なので、宗教的観点からはダメと言われる事でも、私はありだと思います。これは、葬儀儀礼における民族・風習の観点です。

お孫さんが曲を歌おうが、バイオリンを弾こうが、それは自由です。葬儀の場で漫才をしても、供養を願う気持ちから行うその行為はありだと思うのです。でも、弔電すら否定する浄土真宗の葬儀でこれをやったら、絶対、開式前にしなさいって言われますけどね。

観点の違いを狙う直葬屋

本来、葬儀はその地域で行われてきた風習が加味されています。ある村ではいくつかの宗派のお寺があるのですが、仮に浄土真宗のお寺さんが導師を務める時、他の宗派のお寺さんが脇導師を務めたり、式衆として読経するなんて事もあります。この逆もありで助け合います。

宗教的観点から言えば、これはアウトですが、民族・風習的観点から言えばセーフなんです。このように共存・協力して行うのが葬儀であり、決まり事を破ったからと言って絶対ダメとも言えないのです。

で、こんな盲点というか、ファジーなところを狙っているのが、直葬を積極的に販売する小規模の葬儀屋連中です。民族・風習的な観点から言えば、「葬儀に絶対は無い」ので、そこを逆手に取り火葬のみを行う事をあえて葬儀と言い、勝手に定義している商品。それが直葬です。しかも、最近では直葬を家族葬とも表現し、施行獲得のために消費者を惑わせてもいます。

直葬は、葬儀費用を心配される方にとっては、ある意味「いくらあれば荼毘に付せれるか」が可視化されて安心なので、これを否定するつもりはありません。そのカタチを選択せざるを得ない施主の切ない気持ちは、葬儀屋がカバーするべきものだと思います。

費用をかけずとも、自分たちでできる範疇で時間とお金と労力を注ぐ、その気持ちが大切なのですが、多くの方は葬儀屋に乗せられて、時間と空間を省いてしまうのです。

自宅で火葬のみのプラン

あえて直葬を行うなら、私は、費用のかからない自宅で火葬のみのプランをお勧めします。そうすればゆっくりと故人との時間を過ごす事ができます。

自分たちで花を買って供えればいいし、食事を作って故人の供養のために食せばいい。たとえそれがおにぎり一つでも、私はその行為の持つ意味の方を大切にするべきだと思うのです。

自宅を希望した場合、「棺が入らないので自宅は無理です」と言う業者もいます。でも、人が普通に出入りできる玄関があり、人が横になって寝れるスペースがあれば、自宅で葬儀はできます。その条件でできないと言う葬儀屋は、人手がないか、面倒なのでしないだけです。

また、「ご近所にご迷惑がかかるから…」なんて思わないでください。迷惑も自由も皆公平です。普段の付き合いがなくとも、事前に挨拶を行う事で、大抵の問題は解決できるのではないでしょうか。頭を下げて回るその行動そのものが、すでに供養だと思います。

葬儀にお金をかけることが全てではありません。けど、親を家族を思うなら、普段の生活費用の中からでも、少しは事前に準備できる事も事実です。自戒も含めて書きますが、死を実感しないので、心積りが生まれないのです。

それらを踏まえた上で、気持ちと行動と時間と空間を大切にする。それを含んだカタチなら、世間での呼び名は直葬でも葬儀本来の姿だと私は思っていますし、それが「直葬は、間違ってます」とのタイトルの意味でもありますので。

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