アマゾンお寺さん便の話題が薄れてまんな

鎌倉の大仏
鎌倉の大仏

宗教とは、仏教とは何か? 葬儀においてもその存在意義を問われている。amazonお寺さん便で問題になっているお布施の問題や仏教の存在意義、一つの提言ですが、その解決には地道な行脚が必要ではないかと感じます。

ちょっと、仏教というものについて考えてみた

仏教を教育の場で学んだ事はない私なので、お寺様がSNSなどで飛ばしている会話の内容の文言にあるような難しい言葉は分かりませんが、私たち衆生が感じる仏教とはなんだろうかと思う出来事があったので、ちょっと考えてみました。

私感としての仏教とは、身近にある生活の仕組み、生きる意味、命の意義などを教えてくださり、悩みを解消し、豊かで平穏な心を持つことの大切さを諭してくださるもの。生活の中に存在し、心の依代であり、行動の源になる叡智かもしれません。

そして、衆生に救いを与えてくださる方々は、厳しい修行の末に何かを悟る方、また、全国を行脚し阿弥陀様の素晴らしさを説いてきた方もいる。それらを体現し、その生き様で人間としての意味を伝え、言葉で心を救ってこられた。

そして一番大事な事は、双方向へエネルギーの行き来があるのが仏教だと。なければ仏教ではなく、自己満足であり、生活ではなく学問としての仏教ではないかと。仏教関係の方からすれば単純で申し訳ないですが、そんな風に感じています。

アマゾンお寺さん便問題

登録をするお寺さんに対しては、宗門を維持するためのやむえない行為だという意見。全仏からは、定額表示によるお布施が商行為として捉えられる事に意義を申し立て、お布施の本来の意義を理解いただく言動が足りていなかった。そのためには、仏教が身近にある存在としての活動を、もっと真摯に取り組まなければならないなどの模範的回答がありました。

2016年3月4日に全仏がアマゾンに対して「販売中止のお願い」を行ってから、特に目立つ行動はない。アマゾン側が販売を中止しない姿勢に対して、仏教側が行動を起こすことによって、かえって宣伝をしてしまう事に危惧でもしたのか、音沙汰なしです。

葬儀が低俗化しつつあるこの時代、それに伴い、宗教もまたコアな一部の熱狂的な信者を除いて、世間とは遠く離れた存在位置にいることは間違い無いと思うのです。真摯に仏教を捉え、学び実践する方もいらっしゃるが、この方の言葉も難しかったりする。どうしても宗教者との会話になるので私たちのように簡単な言葉では話せないのかもしれない。

専門的な用語はもちろん、仏教の歴史的背景やその思想背景なども、学問としての仏教に対する知識がなければ話せない雰囲気があるので距離感を感じてしまいます。しかし、そもそも仏教とは一般の衆生に対して生かされるものではないのだろうか。

ならば、もっと優しい言葉、簡単な言葉で伝えるべきではないでしょうか。一部の者にしかわからない言葉は、自分たちとは違う世界としか感じない。宗教行事に参加する事は貴重な体現であり、発心だと思うのですが、それが特別な事ではない方が交流しやすい世界観ではないかと思うのです。している事が特別感を出してはいけないと思うのです。敷居が高くなります。

時折、聞こえてくる活躍されるお寺様の姿

人知れず恵まれない子供達のために活動をされている方もいらっしゃいます。無料で様々な講習会、講演会をされている方もいます。そのような活動を支えているのは、悠久の歴史の中で受け継がれてきた宗教的行事の中で研鑽を積み、さらなる高みへと修行に励まれている中で育まれた心です。

その慈悲の心で行っているボランティア活動にしても、自坊での活動にしても、意思を共にする仲間と行っている活動にしても、こういった言動はなかなか衆生の目には止まりにくい。

別に宣伝のためにしている訳ではないから広く知られなくても、その意思を共感できる方々との交流でいいのかもしれない。自身の活動のテーマとしてとして、ライフワークとして行っているので、周りがどう感じようが、そこに価値はないので理解はできます。

大きな震災が起きるとボランティで現地へ赴く方もいらっしゃいます。これも貴重な行動であると思います。祈りを捧げ、魂の鎮魂を願う。被災者の心の依代となり、生きるエネルギーを復活させる源にもなります。仏教が国の指針を決めた時代があったように、それだけ大きな影響力がある存在なのでしょう。

対する最上位にいる団体の考えって、今更?と思うのです

アマゾンお寺さん便の問題で全仏は、

私ども公益財団法人 全日本仏教会は、宗教行為としてあるお布施を営利企業が定額表示することに一貫して反対してきました。お布施は、サービスの対価ではありません。同様に、「戒名」「法名」も商品ではないのです。

申し上げるまでもなく、お布施は、慈悲の心をもって他人に財施などを施すことで「六波羅蜜(ろくはらみつ)」といわれる修行の一つです。なぜ修行なのかというと、見返りを求めない、そういう心を持たないものだからであります。そこに自利利他円満の功徳が成就されるのです。

今回の「Amazonのお坊さん便 僧侶手配サービス」の販売は、まさしく宗教行為をサービスとして商品にしているものであり、およそ諸外国の宗教事情をみても、このようなことを許している国はありません。そういう意味で、世界的な規模で事業を展開する「Amazon」の、宗教に対する姿勢に疑問と失望を禁じ得ません。しっかりと対応していきたいと考えます。

とありました。そして、こうも言ってます。

お寺は相談しにくいという声を真摯に受けとめ、社会のニーズに耳を傾け、これからの教団・寺院運営に反映していかなければならないことを付言しておきたいと思います。

ならば、福祉葬などの方の葬儀に対して、火葬場でお力を貸していただけませんでしょうかね

この言葉を受けてずっと心に引っかかっていた事があります。これまで、葬儀の場を通じて様々なお寺様と触れ合ってきました。お寺様と触れ合うという事は、その教えにも触れてきたという事です。

しかし、30年近い葬儀経験の中でも、火葬場が開場している間に福祉葬やお寺様を呼べない方のためにと、最後に読経をして差し上げるお寺さんは見た事がないのです。時間の許す限りの範疇で、常時待機してそのような行為を行っている方は見かけません。

関西の火葬場が主の私感なので、私の視野が狭く、日本全国にはそのようなお寺様がいらっしゃって、「すでにそんなことはやっているよ」という方もいるかもしれません。もし、そうならお許しください。

でも、そういった活動がすでに行われているのなら話題になっているでしょうし、存在しているのなら、いい意味での仏教を理解していただける行動になると思うので、全国的に普及に努めるべきだと思うのです。そういった小さな人知れず行っている行動が、地域で認知される事によってお布施についての概念も変わると思うのです。

お布施の原点は、座っていてはわかりませんよ

そして、強要ではないですが、もしその場で、読経をいただいた方からお寺様に渡されるお金や物品、感謝の言葉があったとすれば、そのような行為が、自然発生的に生まれた心からの行動こそが、お布施の原点ではないのでしょうか。それを仏教会も衆生も再認識できる貴重な場にはなりませんかね。

当たり前のように、1万円刻みの金額の目安を伝えてお布施とする概念も変わるでしょう。 ある人からは、アマゾン問題が起きてから、「お布施がいくらでも、お葬式には参らせてもらう」との言葉を聞きましたが、なぜ、待ちなんですか。その気持ちがあるのなら、自らが出向き、行動で示すべきではないのですか。とも感じます。

火葬場に趣旨を伝え、理解を得る努力もその理念があれば超えれるものです。そして、周りのお寺さんと協力して輪番制なら、お忙しい身であっても効率よく参加できる可能性はないのでしょうか。これが、やってやるのではなく、やらせていただく気持ちから発する言葉での「いくらでもお参りさせていただく」気持ちの表れ、言動ではないかと思うのです。

マスコミも世間に流されて、読んでもらえるならと内容を考えず掲載したり、取り上げたりせず、本当に必要な、有意義な情報を選択して、そういった貴重な言動を積極的に取り上げていただければ、多くの方の仏教への価値観も変わるきっかけになりますし、葬儀についても宗教を根底に置いた意義を感じてもらえると思います。

仏教の行く末は、仏教会の手にあります

アマゾンお寺さん便問題が起きた時に、私は、事業主体のみんれびのようなシステムを、全仏なり、各宗派の本山がやって、お寺さんを紹介するシステムを構築したらどうですかと言いましたところ、皆さんからは、それは無理とか、宗教界を理解していない旨の意見をいただきました。

しかし、末寺の運営を見過ごしてきた、協力をしなかったのは本山でしょうし、全仏ではないかと思うのです。檀家が減り、活路を見出すために葬儀社と懇意に付き合いをする。その枠から外れたお寺さんは、応援で入る以外はお呼びがないのです。

お寺さん個々の問題であり、生活の事ですから、周りがとやかく言う事ではありませんが、「教え」を守るためには宗門全体で問題を考える必要があると思うのです。

福祉葬やお寺さんに費用をかけられない方への読経を、全仏は、個々の寺院に対して強要できませんし、まして、運営というか収入を得て寺院を維持する事に対しても全く関与しないし、関知しないように見受けられます。これは本山も同じで、末寺の行く末などに手を貸してくれそうにもない。そのくせ、上納は厳しいとも聞きます。

今できる本当に必要な事は、古く教義を衆生へ伝えようと努力をされた偉人のように、地道に行脚する事かもしれません。福祉葬やお寺様に読経を予算的にお願いできない方の葬儀そのものに、最初から最後まで無料で参加すれば、周りのお寺さんから反発を食らうでしょう。

でも、火葬場だけに限定すれば市町村に許可を得れば済みますし、人間の死を悼み、その死を尊ぶ、日本を支える人口を形成する、大切な国民が一人亡くなったのですから、国や市町村をあげて悔やむべきでしょう。その行為を反対される自治体があったとしたら、そんなところに住まない方がいい。単なる納税対象者としか見ていないでしょうからね。

全国のお寺様へ

このような行動が正しいかどうかはわかりませんが、アマゾンお寺さん便に問題ありと思われる気持ちを、そのような行動で示していただければいかがでしょうか。様々な問題が存在するのはわかりますし、その事を書き出せばまだまだ足りません。ですので省きますが、あくまでも提案、投げかけです。

私が行っている事は、現在のお寺様がされている様々な行動に比べて比べ物にならない程です。偉そうに言えるものでは全くありません。こういった意見に対して異議を申される宗門以外の方もいらっしゃるでしょう。お偉い方だとか、お忙しい方に対してと。

でも、宗教はもっと身近なものです。特別なものではないのです。難しい言葉で伝えても理解できる方は限られます。生身のお釈迦様を誰も知らない現代ですが、お釈迦様がそんな難しい言葉で伝えたとは、その時代と現在と鑑みてもありえないと思うのです。

その原点に戻って、仏教を宗教を身近なものにできるかどうかは、仏教会に席を置く皆様の手にあります。釈尊の時代にも、その存在を否定する者から迫害を受けてきた歴史もありましたし、また、市民権を得るために様々な努力をされてきたと。

その教えが存在する意義があったからこそ、現在に残っており、継続しているのですから。 これから仏教が生き残れるか、葬儀社が生き残れるかは、それぞれの手に委ねられていると思います。

想う心のエネルギーが行動に移される。そこには、現生の都合や利益は一切ない世界。歴史上の偉人が行動し続けたエネルギーの源。それが発心だと思うのですが、さて、さて、どうされますか? 全国のおじゅっさん。

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