葬儀屋さんは、AMラジオを聴くことをオススメします

スマホ片手にゲームやSNSに気を取られている葬儀屋の若手の皆さんへ。何もかもが小さな端末で必要な情報が手に入る時代にあえて言います。言葉だけでものを伝えるAMラジオから学ぶべきです。

加計学園問題や防衛省の日報問題などで出てくる「メモ」

先日から車内ではAMラジオを聴くようにしています。別におっさんになったから音楽ではなくラジオという訳でもなく、改めてその奥深さとすごさを感じたからです。

というのも、たまたま乗り合わせた車でラジオが流れており、加計学園問題や防衛省の日報問題などで出てくる「メモ」。ついその話に聞き入ってしまった事から始まりました。

このようなメモは各省庁では実際に存在するそうです。日本には記者クラブ制度があり、各省庁・警察・行政などに置かれています。情報提供者は、プレスリリース用のネタを記者クラブの各マスコミのポストに投函しておけば気になったところから取材依頼がくるので、それに対応すれば良いとなります。

上級職の人間に話を聞きたい。となれば、各広報が段取りをつけてセッティングします。その際に双方の会話をメモする人間が必ず同席するというのです。しかもボイスレコーダーではなく手記です。

ボイスレコーダーだとパソコンにデーターを保存できてしまう。すると、秘匿管理できずいつ流出するかわからないし、確実に存在する共有した証拠となってしまうのを避けたい思惑があります。メモだと個人のやった事となり、記録者の意図が含まれていて信憑性が薄いとなる訳です。

そして記事化され、意図した内容と違っていれば(不都合な事実の記載)、今度はそのメモの内容を利用して「あの時の発言はそうでなはない。こちらのメモによるとこういった趣旨のはずだ」と、都合のいい内容を記事にするための「指導」と「責任転換」ができるからなのです。

ま、マスコミも、これをとことんやりあうとその社だけ記者クラブを外されてしまい、簡単に情報ソースが手に入るきっかけを失い、強いては、相手の口も硬くなってしまうので譲歩したりする訳です。

なので顔色を伺いながら付き合いをするのですが、そうなると不満も溜まってくる。熱い記者から「言論の自由を侵害している」なんて大騒ぎになると厄介なので、時折、懇意にしている記者だけに「ちょっとしたネタ」をリークする。

そうする事によってガス抜きを図り、付き合い方を指導し、省庁も行政も警察も政治家もこれを利用して「要らない人間を失脚させたり」、「自分に有利な状況を作り出す」事ができる訳です。

ネタ元が同じだから同じ内容のニュースになる

そもそも記者クラブなるものは日本独自の存在であるらしく、世界を見渡してもネタ元から意図された、画一化された情報ソースが与えられるなんて構図はないそうです。

独自の観点から取材を進め、世に必要とされる情報を正確に伝える。これが本来のマスコミの姿勢ですが、日本は持ちつ持たれつの、いわゆる「ズブズブ」の関係であるため、書きたい事が書けない環境です。

このような話をラジオから聞いた時、言葉だけでものを伝える事の素晴らしさ、難しさを改めて認識したのです。このパーソナリティの話し方が、もし興味のわかないものなら重要な内容でもここまで聞かなかったかもしれない。

逆に、徐々に引き込まれていくトークについ聞き入ってしまい。話が一段落するまで車を降りられない状況って「すげえな」と感心したのです。

内容の真偽についてはリスナーが判断すればいいのですが、少なくとも情報を発信する側としては確証を得ているからこそ世界に向けて発信してはいます。そしてラジオはテレビや新聞などと違い、若干踏み込んだ、思い切った内容の話も出してきます。

葬儀屋さんは言葉の重要性を認識しよう

こういった、「人を惹きつけるトーク」って葬儀屋さんにはできているんだろうか。とふと思ってしまいました。何かをする。その意味や価値観をいかに伝えるかによって、行う儀式の意味合いも、また変わってきます。

最近は減りましたが、よく葬儀の見積りの場で「何もわからないのでよろしくお願いします」とおっしゃる方をお見かけしました。その言葉を聞いて「よし、今日はそこそこの祭壇が売れるぞ」なんて考えるやつや、自分の有利なような話しかしない連中も見てきました。

「そんなもんだろう」という思い込みを利用して、言葉を端折ってしまう。そんな行為をやってしまうのです。詳しく説明しなくても相手は了承してしまうから、その存在意義や価値観を説明しようとしない。いわば、「これとこれがありますが、みなさんこれが多いですね」でチャンチャンです。

これでは遺族と担当者の距離は近そうだけど遠い。かと言って、担当者の自己満足による持論をしつこく話されても大きな負担と不満になってしまいます。

本物の言葉による癒しと共感

グリーフケアの重要性を今更ながら認識しているのですが、葬儀屋さんが担う部分も大きいと考えています。葬儀を無事に済ます事で喪失感を補う、故人を悼み「してあげたい事」を思い計り、糸目をつけずお金を出す事が癒しに繋がるのだろうかと疑問に感じます。

葬儀について自社の都合を押し付けるのではなく、その意義を伝えるためには、もっと「言葉」の重要性を再認識しなければいけませんし、大切にしないと伝わらない。そして何より、話す上では自分を研鑽しないとダメだという事です。

宗教もしかり、葬儀の文化もしかり、死生観についても、自らが学ばないと責任を持って話すことなんてできないと、AMラジオから学んだことでした。

物事に関心を持たず、新聞も読まず、本も読まず、世間でコントロールされた情報を鵜呑みにして、スマホ片手に入るネタで満足しているようでは、本物の言葉は出てきませんし、日本全体が記者クラブ化している現実を客観的に見れる、己の「モノを観る眼」が必要な時代だと感じます。

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