現代における四苦八苦とは

大きな瞳の女の子
大きな瞳の女の子

現代における四苦八苦とは何かを考えてみた。葬儀は動と静の時間が共有する場であり、本来、そこへうまくシンクロするシステムがあったのですが、現代の早すぎる時間概念がそれを拒んでいる。生きるも苦労、死ぬ事も苦労である現代で何を大切にするべきなのか。

一般人における四苦八苦とは

四苦八苦、標準的に言うと「しくはっく」ですね。大阪弁では「しくはく」と言い、「もぅ、うまいこといかへんから、しくはくするわぁ〜」って感じで古くはよく使いましたが、最近ではあまり聞かない言葉です。

ご承知のように仏教用語として広く知られていますが、この四苦は生苦・老苦・病苦・死苦の四つをさし、後、愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとっく)・五蘊盛苦(ごおんじょうく)(ごうんじょうく)の四つを合わせて、四苦八苦と申すそうですな。

三日坊主は、坊主と名がついても、坊主ではないので専門的な学術的な解釈はできません。普通の人間、衆生であるゆえの解釈で考えていますのでご了承ください。

さて、この中の愛別離苦、怨憎会苦について、「ひとくち法話」でわかりやすく説明をされている真宗高田派の本山専修寺(せんじゅじ)様より引用させていただきますと、

「愛別離苦(あいべつりく)」

「愛別離苦」とは、原始経典によれば「愛しいものと離れることも苦である」とされます。これは、愛するものとか、いとしい人とかが愛であって、それと離別する苦しみということです。いかなる愛にも、別離のない愛はなく、いつかは必ず別れなければならないというのがこの世の真相であり、それが愛と別離する苦と呼ばれます。

「怨憎会苦(おんぞうえく)」

「怨憎会苦(おんぞうえく)」とは、私たちが生きる上で必ず出会わなければならない苦しみであるとされます。この苦しみは、前の「愛別離苦(あいべつりく)」と表裏となる真理であります。私たちは、好ましいものを近づけ、好ましくないものを遠ざけようとしてしまいます。しかし、そのようにならないのが現実で、これが苦の根源となるのです。

「求不得苦(ぐふとっく)」

求めて得ざる苦しみを求不得苦と言い、四苦八苦の1つに数えられているものであります。「人生は苦なり」とは、すでにお釈迦様が教えておられることですが、思うことが思うようにならないのが苦の本質であります。

 欲しいものがあれば、それを手に入れることに躍起(やっき)になり、無理を通し、他を押しのけ、自分の思うようにならなければ、腹を立て、ねたみ、心が静まることがありません。また、自分に直接かかわりがないとなると、つい無関心になってしまいます。

「五蘊盛苦(ごおんじょうく)(ごうんじょうく)」

「五蘊盛苦」は四苦八苦の最後に説かれる総括的な教えです。五蘊とは5つの集まりで、人間は肉体である色(しき)と精神である受(じゅ)(感受作用)・想(そう)〔表象(ひょうしょう)作用〕・行(ぎょう)(形成作用)・識(しき)(識別作用)とが和合して構成されています。まさに煩悩具足の私たちの在り方そのものを示しています。

(中略)

だから、生きようとすればするほど四苦八苦の苦脳に陥ってしまうのです。その原因が私たちの自己中心的な欲望である煩悩(ぼんのう)の仕業だとお釈迦様は説かれています。

と、おっしゃっています。

各宗派によって若干の解釈、表現方法が違いますが、その真理がわかればそれこそが悟りの世界でしょうから、いろいろと解釈があってもいいのではないかと思うので、わかりやすさで引用しています。

意外なところに解決方法のヒントはあった

今回は、仏教用語を解説するつもりではありません。実は、この記事をご覧いただいている方はご承知でしょうが、サイトのトップページをカスタマイズしていたのですが、これがなかなか、「四苦八苦」した訳です。記事ごとのサルネイムがずれたり、表示に時間がかかったり、挙句、画面が真白になったりとか苦労したのです。解決に3日かかりました。

経験の長い、葬儀における問題なら、経験則によるシミュレーションができているのである程度の解決方法が見えるというか、なんとかなると信じれるのですが、知識がない、経験値の少ない分野の問題が発生すると、いくら考えてもわからないし問題解決の糸口が見えない。

知らない世界のスキルが及ばない問題が発生した場合、どうやって解決するか。これにはやはり時間が必要です。優秀な頭脳をお持ちの方なら時間も少なくて済むのでしょうが、私たちはそうはいかない。四苦八苦の問題に遭遇した時もそうですが、心が解決するのに時間がかかるのです。で、ある時、フッとヒントがひらめく時がきます。降臨です。

これは、どの世界でも同じだと思うのですが、集中してその問題と取り組んでいる時、意外と同じところばかり堂々巡りしている事があります。自分では違うアプローチで取り組んでいると思っているのですが、思考の方向性が同じなので解決しない。そんな時、世間の言葉がヒントになります。自分とは違う観点からの意見は貴重なものです。

結局、解決すると大した事ではない場合も多い。専門のスキルの高い方々からするとなんでもないことなんでしょうが、これがなかなか理解できない。そう、葬儀の現場で見積りに行った時に、喪家がよく行っていた言葉「何もわからないので宜しくお願いします」と同じじゃないかと思ったのです。

動と静の時間が共有する世界、それが葬儀です

今回のカスタマイズでは、終了の時間が切られている「いわゆるケツカッチン」ではないので、圧迫感というか、焦りというものはないのですが、通常の葬儀における見積りでは、火葬場の時間が決定した瞬間からカウントダウンが始まってしまうのです。

見積りにかかる時間、親族への連絡の時間、故人や喪家の関係先への訃報連絡にとられる時間、あっ、ご飯も食べないといけない時間、あらら、ご近所さんが弔問に来ましたよ時間、やたら電話がかかってくる時間、何かと忙しく時間は過ぎていくのですが、ふと横を見ると故人は安らかに存在している。動と静の空間がそこには存在しているのです。

普段の私たちの生活で忘れている静の時間が存在しています。それまでの人生における苦労や痛みを乗り越えたかのように、まるでお釈迦様か阿弥陀様と同じ涅槃の境地を示しているかのように故人は安らかに眠っています。そう、四苦八苦を悟ったようにです。

その時、私たちは生きる意味と死について考える時間を強制的に与えられている事に感謝すべきなのですが、悲しくも最近では、それをも動の世界へ引きずり込み、その時間概念の物差しで推し量ろうとしています。これが大きな間違いを生んでいるのではないかと思います。

静の時間とシンクロできない現代

携帯電話が普及をしてから生活は便利になりましたが、そのために私たちは静の時間を削られて、動の時間の中に強制的に掘り込まれている環境に変わりました。

電話がかかってくれば必ず出ないといけない。不在着信があれば折り返しかけないといけない。LINEでは既読を気にする。Facebookでは、そこらじゅうに「いいね」をしないといけない。そんな恐怖観念の塊のような空間です。

黒電話の頃なら(10代、20代の方は使い方を知らないそうですが…)あまり遅い時間にはかけれない。かけても出なかったら、明日、かけ直すしかない。夜中でもかかってくるのは、事故、事件が起きたか、もしくは、誰かが亡くなったのか。

そんな感じでゆっくりと時間は過ぎていましたから、死の世界観、すなわち静の空間への関わり方も同調しやすかったのではないかと思うのです。現代の忙しい時間概念から静の世界を受け止めようとすれば、心も体も価値観も急ブレーキをかけないとシンクロできないのです。だから無理がある。

情報が多すぎるのも考えモノ

最近では葬儀の情報も増えました。情報過多と言ってもいいほどです。そのため現時点では目にしても記憶に残らない。よほど興味がわかないと目にも入らない。

終活ブームと言われてましたが、エンディングノートも書いていない人も多いと聞きます。いざ始めようと思った時に「?何を書けばいいんじゃ」と、自分の葬儀を考えると言っても、自分史をまとめるようなものですから意外と書く内容がない。仮に記入したとしても、年月が過ぎるとその存在すら忘れてしまうかもしれないのです。

身近に葬儀が発生した場合、その時には実感として感じるものでもあるのですが、これも時間が過ぎると記憶から薄れていく。体調が悪くなったり、生死に関わるような事が起きるとまた考える。知り合いに不幸が起きたらまた考えるけど、これも時間とともに薄れていく。

これらも動の世界によるマイナス要因ではないかと思うのです。あまりにも情報が忙しく飛び込んでくる。それを処理するのにも時間がかかる。ゆったりとした時間を持てない現代ではそれを得る空間にも接点がない。本来、お寺はそのような空間であったのですが、今はその関係性すら流されて行こうとしている。

さて、どうしますか

最近は、気になるサイトがあれば登録する事が簡単にできますし、そのサイトが更新すれば通知も来ます。ネット上での情報を得る方法は簡単になってきましたので活用するべきですね。あと、情報が多すぎる事で、かえって入ってこない情報も存在していますので、いかに自分の役にたつ情報に出会えるかが問題です。

これは、本屋さんで一冊の本と出会うのと似ています。その時に手にしないと二度と手に入らないかもしれない。いわゆる「縁」というものかもしれません。

私も、このブログを始めてから様々な出会いがありました。葬儀に関連するお仕事をされている方、葬儀を研究されている方、葬儀で困ったことがあった方、そのような方々からお言葉や相談をいただくと、元気が出ますし、やってよかったと思えるのです。

情報を得るための手段は便利になった事を活用するべきでしょうし、先に申し上げたように、解決するためには時間が必要です。まして、自分の知らない世界についてはより一層の時間を必要とします。ならば、亡くなってからではなく、事前に継続して時間をかけて自分が理解できるようにするのがベストな方法と言えます。

生きる事も苦労、死ぬ事も苦労します

四苦八苦を乗り越えることができれば何も悩むことはないのでしょうが、私たちはそうはいかない。いざ、葬儀を行わないといけない状況になった時、皆さんもそれこそ四苦八苦されると思うのです。そんな時、葬儀社の人間の言葉の中にも解決のヒントがありますし、あなたの周りにいる方の言葉にもヒントがあるかもしれない。

古くは長老がその役を担ってきたのですが、現在はちょっと存在感が薄れている。また、ご高齢で登場してこない場合も多いのです。ネットでの情報も全てが正しい訳でもありませんし、どう取捨選択するかがポイントなのですが、この基準もわからないのが現実です。

昔も今も24時間は同じなのですが、現代はそのスピードが早いと感じます。事業者も消費者も同じように時間に追われている中で、その対象者である故人をおざなりにしては葬儀そのもの意味が全くなくなってしまいます。もっと言えば、時間経過の価値観を葬儀にまで当てはめてしまうので、今度は儀式までを端折ってしまう事になります。

時間とうまく付き合う

やはり、お葬式は手間がかかるものですし、お金もかかります。しかし、そこには普段の生活の中では存在しにくい「静」の時間を感じる時でもあります。忙しいからといって、その時間までも省いてしまっては葬儀の意味がありませんし、人は、静の時間も上手く付き合わないと自分を見つめ直す事が出来ないのかもしれません。

お寺で座禅を組み、ゆっくりと時間が流れる空間を得ようと思ったら、何かを捨てないと得ることはできません。自分の時間のうち、それをあてがわないと得ることはできません。葬儀も同じく、自分の時間を故人に捧げるといいますか、共有する事で初めて「観える」ものがあると思うのです。

それが葬儀本来の意味であり、動の時間から静の時間を感じ取る事が、生きる世界と死の世界でもあり、陰陽の世界観かもしれません。科学的な論理を説明はできませんが、この地球が存在している根本と同じであるからこそ、お釈迦様の説いた世界がいつまでも受け継がれている要因の一つではないかと思いました。

普段、動の時間ばかりに追われると、これを忘れてしまうのではないかと、今回、夜中にひっそりと没頭しながら修正をかけている時に四苦八苦した経験から感じた次第です。

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コメント

  1. 三日坊主 より:

    コメントを頂戴いたしましてありがとうございました。家内という事は、奥様でしょうか。お身内の方を亡くされたお辛さを拝察し、ご心情をお察し申し上げます。

    私には、母の死しか経験をした事がないので、お気持ちを支える事ができない言葉を並べてしまうかもしれません。お許しください。また、当方のブログが何かのお役に立てたなら、それは誠に本望であります。

    私の思いとしては、やはり通夜は静の時間であって、葬儀式は動の時間と感じております。これは、実務に従事していた中でも、自分の経験としても感じてきた事で、それらを含めた葬儀は、日常とは違和感のある世界観が存在すると思いますし、そうあるべきだと思います。

    静の時間にこそ、死を見つめる時間が存在すると思っていますし、故人様と時間を共有する中でこそ、生きる意味を感じさせられる時間ではないかと思っています。これは、葬儀が終わってからこそが長らく続く時間であって、喪主様、お身内の方にしか感じれない気持ちかもしれません。

    私は、母を亡くした時に、多くの方が通夜・告別式に参列される状況になりました。
    当時は、葬儀の部署の責任者になって間もなくだったので、仕事関係では、義理で参列された方も多くいました。責任者でなければそこまでの参列はなかったと思いますし、気持ちの中は、真偽混じった中での通夜、葬儀でした。

    賑わいが静まった時、そんな時間は突然やってきました。母と生きてきた時間、母が関わってきた、親族や友人知人との時間などを思い返した時、ゆっくりと思いを「会話」できる時間が必要なんだと思った次第ですが、そのほとんどが、反省でした。

    おふくろに何もしてやれなかった。心配ばかりかけて、親孝行なんてできなかった。いつも、おふくろの口から出てきた言葉は。「仕事は、生活は、あんじょう言ってるか」しかなかったのです。いくつになっても、親は親ですし、伴侶はまた特別な思いがあると思います。

    相手様(ご高齢の方)にも、私たちが想像できない思いが必ず存在すると思います。こちらが良かれと思っても、相手にはそれが良くないことも多々あると思いますので、やはり、時間を共有することで解決できる事もあると思います。その方にとっても、大切な方には違いがないのだという事を痛切に感じたのです。自分(喪主)の思いに遠慮されているだけで、自分(喪主)がもし、存在しなかったら、その方の思いで葬儀は進んでいただろうと。

    何れにしても、ご自身が納得できる葬儀=時間を送る事ができたなら、一番の供養につながっていくと信じています。

    これからも、1日、1日が亡くなられた方への供養になると思いますので、ご無理のない範囲で時間を過ごしていただければと願っております。

    そろそろ、満中陰を迎えるか、お済ませになった頃かとも思いますが、初盆が今年に当たるなら、ゆっくりと思いを馳せていいただければとも思いますし、皆様が前向きに、明るく、楽しく、幸せに生きる事が、天上界から見た時の故人様の思いとしては、一番に安心され、成仏への道に近づくのではないか。そんな事をいつも思い、話してきました自分でもあります。

    母の死で、その思いはより一層強くなりましたし、毎日、気持ち(子供を心配しているだろうなと… 親って、そんなもんですもんね)を思いながら、花を手向け、線香をあげて、灯明を灯す時間を大切にしていただければと願います。

    そうは言いながらも、大した事はできない自分を恥じてもおります。

    葬儀は、様々な形があると思います。正解はありません。何より、故人様を思い、忍び、心に留めている事が、一番の供養になると信じておりますし、御霊の安らかならん事を願っております。

    不適切な言葉を並べてしまったかもしれませんが、私のような者に投げかけてくださったこの度のご縁に感謝いたします。

    今後も、皆様のお役に立てるよう、努めてまいりますのでよろしくお願い申し上げます。

    ご自愛なされまして、お供養いただきますよう願っております。

    三日坊主

  2. 後藤 智巳 より:

    今年6月に、家内の葬儀を一日だけの簡単なものして、遠路会葬してくださる高齢の親類の方々が、通夜と葬儀の二日間も往復しなくて済む方法は無いかと、葬儀社に相談したりしました。
    お寺さんと相談してみては、と言われましたが、僧侶に言えば、通夜と葬儀は必要だと言うに違いないと思い、通夜もおこないました。
    本稿で、「静と動の時間が共有する世界」が葬儀であるという表現を知り、会葬してくださった方々にも少しは静の時間が意味が有ったかもしれないと、何か納得できたようで少し安心しました。

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