1980年代の大阪葬儀事情あれこれ

昭和のテレビ
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現場で見てきたあるある話(順位不同:思いついた順です)

三日坊主のロゴ
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以前、書いた記事の一部を抜粋・加筆して再び登場させてみました。というのも、下書きにするには内容がもったいないと自己判断の行為です。(笑)

当時はこんな感じで仕事してましたし、変わった価値観がまかり通ってました。そんな時代をご存知ない方へ読んでいただければと思います。

こんな感じです

法人ながら個人店のような葬儀社に初めて勤務した頃、給料は、基本給・皆勤手当・当直手当・残業などぶっ込みで20万円。祭壇売上による歩合給が加算された。寸志もあり、月平均で2〜3万円ほど、多ければ5万円ほどの副収入となったのでお小遣いは十分でした。


厚生年金、社会保険完備。公休は月に4回ほど。「明日、飾りないから休んでいいっすか」的な休暇申請。毎朝、担当病院をまわり、チェック後は決まって喫茶店でモーニング。昼食は事務所に社長がいればおごってくれて、いなければ自腹。現場での昼食は喪家持ち。


’80年代より前だったが、『11PM』という、大人な番組に大阪の森安葬祭の社長と大阪高級葬祭(当時、久世葬祭)の社長が夏の怪談話のコーナーに毎年出演。両者ともキャラが強く、森安の社長は火葬場へ羽織袴で同行。高級葬儀はその名の通り金額は高級。今は家族葬がメイン…


中途採用が多く、大学出身者、新卒採用なんてまずない。業界関係の親族・知人、また、その葬儀社に勤務する者を伝って知り合いが就職してくる感じです。面接、即採用OK。だから突然、行方不明になるヤツも… それに、昔はヤクザな仕事してって言われてましたしねぇ。


自宅・集会所・お寺・お寺に付帯する葬儀式場などがメインだった。祭壇の金額によって幕の張り方に違いがあり、低価格の祭壇だと白一色の使い古しの幕。高級な祭壇の場合、新品の白幕、白と色付き二色の水引幕、表回りの鯨幕を使う事もあり。


祭壇で金額が出ない。町内で上限額に決まりがある。などの場合、 ”幕代” として15万円や20万円なりをもらっていた。関西、特に京都ではこの時代、天張りといって、天井に白い幕をすべて貼ってから、飾り幕を張るほどこだわりがあった。


病院霊安室に専属の葬儀社が詰めていた。その担当者が立ち会わないと業者は病院を出れない。詰めている葬儀社は、寝台搬送する葬儀社が来るまでの間に、施行させて欲しいと猛烈に営業アピールする時間として活用していた。


病院からの搬送権利獲得のためにビュンビュンお金が飛び交う時代。その権利に何千万という噂が流れた病院もあった。事務局長、看護婦長を接待攻勢で落とす事も。市民病院から搬送時、市内の業者は平等のはずなのになぜか優遇される業者もいた。


勤務していた葬儀社も寝台専属担当病院(霊安室詰めは無し)を持っていたので、優先的に搬送できる状態。そのためびっくりするような遠方の他府県で葬儀をする事もたまに発生。風習・慣習もわからずちょっと困った事が起きることも。


ここは仕事になる、ならない。なんてイメージを先輩は持っていたので、ならないと思っている地域への寝台搬送が出ると、めんどくさいからと行かされた。その頃、寝台搬送時に寸志をいただく事が多かったので、新人時代は積極的によく行った。


寸志は、寝台搬送時、見積り時、葬儀終了後などに喪家側から自主的に出されたり、見積り時に強制的に計上されていた。当時の ”冠婚葬祭マナー本”などでも “寸志を渡すタイミング”なんて書かれてもいたので、病室でいきなりの場面も。


当時は何かとリベートが多かった。仕出し料理を外注すると10〜20%、寝台を外注するとお茶代、お寺を紹介すれば定額小遣い〜50%、仏壇を購入してくれれば10〜20%、お墓を紹介すれば10〜20%、寸志と併せて給料以外でお小遣いはOK。


搬送中、「葬儀は互助会で行います」と言われながらも、結構、ひっくり返る事が多かった。当時、強かったのは”大阪祭典”ぐらいで、ここは自分のところで迎えに来ていたが、堺互助会(現セルビス)は自宅で待っているケースが多かった。


互助会でするとなり、搬送が空振りに終わると家に来ている担当者に「こっちの寝台車使うな!自分とこで迎えにこんかい!」と、腹いせにぶち当り。一般の葬儀社とはコミュニケーションを取り、互助会憎しとみんな思っていた。


何度かそんな場面があった頃、相手も要領をかまして「喪主さん。すみませんが運転手さんに3千円ずつ寸志を…」なんて事をやってくるように。人の褌で相撲とるな。それなら、おまんとこ会社から手数料(寸志)出しなさいと、またトラブルに…


当時、”献茶婦”今でいうホールサービス係の女性という職業があり、参列者へのおしぼりサービスとお茶を提供し、焼香が始まると参列者を誘導し、出棺後は、幕の片付けと式場の掃除をして解散する。移動は電車で集団。外で見かけると雰囲気で一発にわかった。「あっ、献茶や」と。


献茶婦の団体(10人前後のスタッフ)を”献茶クラブ”と呼び、その長を”おかあさん”と呼んでいた。規律が厳しく、先輩を”お姉さん”と呼び、後輩には”あんた”と呼称していた。儀式や習わしには厳しく、詳しく、よく仕事を教えてもらった。


男性による司会や飾り付けの人員派遣専門の ”あんこクラブ” が大阪には存在していた。代表者は”おやっさん”と呼ばれた。ルーツは古く”葬列の人夫出し”に由来するとも言われる。葬儀社同士助け合っていた習わしも加わって専門化したと考えられる。


このあんこクラブ。飾り付けが終われば終了。出棺時は、店へ祭壇などを片付けて”お疲れさんビール”を一杯飲んで解散。司会担当は、火葬場へ同行するか、片付けに参加する場合があり。いずれも日当は3万円から4万円前後。


同じくあんこクラブ。社長の人気ランキングにより派遣者が寸志を別にもらう場合もあり。そのため、仕事の技術よりも、”よいしょ”するご機嫌取りも多かった。現在は、高額な外注費のためこれらの需要も激減し、ほとんど存在しない。


社員もあんこも献茶も、社長の顔色を見ながら仕事をする者も多かったので、目線は消費者に対してではなく、お互いの利益に向いていた。この文化・風習は、現在も社長と、それを取り巻く主要人員などの関係性に根強く残っていると思う。


献茶婦の請求は喪家に対して1名15,000円。支払いが8,000〜12,000円。献茶の寸志も喪家に請求しているけど、本人には支払わない。社長・担当者のポッケにナイナイ。現在、寸志もなくなり、献茶婦の仕事そのものも需要がかなり減った。


一番の売りは ”祭壇” 、特に檜の白木祭壇がメイン。使用頻度によって金額が変わる。新品→高い。使用頻度の高い、色焼けした祭壇→安い。でも、祭壇を洗う(アンモニアを主成分とする薬剤で洗浄する)と、白くなるので売価も少し復活する。


当時の霊柩車は白木の宮型が主流。白木組み立て直後と車種によりランクが違い料金も変わる。当時、特A・A・B・C・塗りの5ランクだったと記憶している。


夜間霊柩車を確保すれば、同時に大阪市内の火葬場も仮押さえ状態が可能だった。これは、斎場の夜間受付を公益社が担当していたため。大阪市は否定。暗黙の関係。


霊柩車事業は公益社が独占しており、どうしても頼まないと仕方がなかった。後に寝台車許可が緩和され、葬儀社が霊柩車も自前で持つようになり、自車で走ると伝えると、「足らない時には走らないので」と、よくかましてきやがった。


大阪では霊柩車の車体はクラウンが主流だった。Aから順に、年数とともに色焼けした檜の上物飾りをバラして剥き直していくが、最後はカシュー塗りで黒く塗り、主に福祉葬などで使用する事が多かった。


特Aは’89年4月に亡くなった、故 松下幸之助氏の葬儀のために用意した車両が後の特Aになったと聞いていた。この葬儀もどえらい事だったが、相互タクシー社長(越前大仏建立者)の時は市場から菊がなくなったとの話。


他府県、特に奈良県ではアメ車(キャディラックが多かった)をベースにして、宮型漆(カシュー)塗りの霊柩車に金色の装飾を凝らした様はド派手だった。出棺前に式場の近くまで来ると、会葬者の頭の上を金色の龍が動いているように見えた。


社葬。大阪では公益社の千里会館・臨南寺会館・浄土真宗:真宗別本山の北御堂・南御堂・四天王寺などがよく利用された。公益社と阿波弥とが付き合いの歴史が古いので専門業者。現在、”家族葬なら千里会館へ”と、道看板にも時代の変化が…


花飾りは祭壇の横に段枠を組み、オアシスを並べて菊を整然と並べて挿す ”スロープ” が主流で、横幅、大きさで値段が決まる。社葬もこのスロープ祭壇で、祭壇の代わりに ”まな板” と呼ばれる、厚みのある無垢のヒノキの長板を用意し、遺影・燭台・盛り物などを置く。


このスロープ、一尺あたりでいくらと単価設定があり、縦横とも真っ直ぐに挿した花飾りの正確さに価値があり、上手な生花職人には寸志を渡してでも指名していた。超うまい奴は縦横はもちろんの事、斜めから見ても全部揃っていた。


この当時の社葬・大型葬の場合、消耗品以外、飾り付け一式ぶっ込み価格で500万円とか700万円とか1,000万円以上など、結構、アバウトな値段設定が多かった。バブル期後半、参列者の焼香への往路・帰路を分けるために通路の壁として木を植えた事もあり。


式場入り口は”庭飾り”が高級品で、灯篭を置き、水車を回したり、滝が流れていたりした。横幅と花飾りの数。片側だけ飾るのか、両側に飾るのか等によっても金額が変わった。


孟宗竹を使った飾り付けも高級とされ、竹職人が現場に来て作業する事も。香炉鉢、抹香入れも孟宗竹で作り、”一回きり”に値打ちが存在。


高級な葬儀の時には、その都度、提灯や水引幕に家紋入りのもの発注し、新品を使用していた。これらを手作りで、即日作成してくれる商店があり、昼頃に取りに行って通夜までに仕上げた。低価格の場合、”弔”とだけ書かれたビニール製。


遺影写真作成だけで商売が成り立つ写真屋さんがあった。葬儀専門で請け負っていた。全て手作業。朝に写真を届けて依頼し、出来上がり次第、また取りにく結構面倒な工程。新人時代は取りに行くという名目で休憩できるので喜んで行った。


服装は、普段の作業時にはシャツとパンツのみ。ネクタイなしでもOK。強者は、飾り付けの時にスリッパでくる奴もいた。現場でタバコは普通。中には酒を飲んで仕事している奴もいた。実際、昼食にビールもふるまわれたので飲酒は普通だった。


家族だけの葬儀は小さな自社会館で施行。セット内容は二種類あり、金額も違ったがどちらも内容の違いはあまりない。この頃、”置きっぱなしの祭壇”にすごい罪悪感を感じていたが、今はどこも当たり前の感覚になっている。


祭壇を組む。こんな当たり前な事が現在はできない社員もいる。当時は幕を張れてなんぼ。司会ができてなんぼの世界。祭壇や荷物をいかに早く、きれいに、そして取り出す順番も考えて積むかが大事で、一応、肉体派にも頭は必要だった。


粗供養にテレフォンカードが大人気だったが、葬儀社としては利益が少ないので嫌がった。なんとか利益の高いハンカチやタオルなどを販売したいのだが、受け入れてもらえない時期が続く。現在の直葬の扱いに困る葬儀社と同じ状況。


一時期、パナソニック(当時:松下電器)の粗供養があった。それは、乾電池の詰め合わせ。でも、あまりにも重いから人気が無く、あっという間に姿を消した。


都市部でも導師一人での葬儀は少なかった。「役僧が必要ですねん」とお寺さんもしれっと言っていた。大阪府南部あたりでは、導師・脇導師二人・役僧三人・楽僧が四人と、四間取りの田舎の家では、お寺さんだらけで祭壇の部屋には喪主も座れない。


導師入場の際には”寺侍(てらさむらい)”が先導した。一般葬でも略礼服で先導していたが、社葬などになると、紋付袴で先導し、導師には”長柄持ち”が傘を持って一緒に歩く。露払いは寺侍が兼任していた。現在の横綱土俵入りのような構成。


葬儀・告別式で新人がする仕事は”答礼場”に立つ事。喪主や遺族の男性と一緒に立ち、焼香を終えた皆さんに「ご会葬、誠にありがとうございます」と連呼。初めは一人づつ声をかけるが、慣れてくると二、三人をひと塊に声をかけるという省エネを覚える。


この頃、葬儀には記録写真がつきもので、開式前には遺族・親族が集まって集合写真を撮っていた。わざわざ、「皆さ〜ん、集合写真を撮りますので〜」と大きな声で言っておきながらフイルムを入れ忘れ、空のカメラで撮影した事も時折発生。


空のカメラで撮影した時、社長は喪家から「写真どうなりました?」と聞かれるまで放置していた。たいていの人は葬儀で写真を撮影した事は忘れてしまうことが多いので、ウヤムヤを狙っていた…


大阪の当時の葬儀業界はこんな感じなんですが、いかがでしょうか。当時はバブル期の後半で「宗教法人の領収証があれば数百万円で買うで」という不動産業者もいたぐらいなのでみんな金回りは良かった頃です。

祭壇はバンバン高額なものが出るし、奈良県には一回しか使わない祭壇を売りに、最低価格数百万からしか受けないっていう葬儀屋がいたぐらいです。神戸にも百万円以下の祭壇では葬儀を受けないってところもありました。

現在は、そんな単価で葬儀をする事もなくなりましたし、サービス向上、マニュアルでのスキルアップなんてスマートなスタイルで仕事をしていますが、葬儀屋の根っこは変わらないかもしれませんね。

だって、その時代の葬儀屋さん出身の上司もいるでしょうし、社長の息子もバブルを経験して後継いでいるんですからネ。

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